ゆりかご。

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リフレイン・キスはじゃあねの後に。

作品名:けいおん!(けいおん!!)

 引っ越してきてから、はじめて部屋の掃除をした。
 いまだに他人の部屋という感覚が抜けないのか、室内が見慣れない。「ただいま」「おかえり」を言うこともないから、自分の部屋に帰ってきたという実感が沸かないままこの二週間を過ごしている。
 駅から徒歩五分。近くにスーパーもコンビニもあって表面上の生活には困らない、なかなかの好物件だ。正直言うと部屋探しをしていたときは他にお気に入りの部屋があったのだが、諸般の事情によってこの部屋に住むことに決めた。今となってはここを選んでおいて本当によかったと思う。お気に入りだった場所は駅から遠かったり、コンビニが近くになかったりしていたから。
 それにしても。散らばった教科書を拾い集めながら唯は溜め息をついた。掃除ってば、思った以上に大変だ。今までは憂の掃除をたまにちょこちょこ手伝うだけでよかったけど、今夜はここを一人で片づけなければいけない。大学から帰ってきて疲れている自分にはなかなかの苦行だった。だが、それでも。
 緩みがちな身体に活を入れて、止まっていた手を動かす。
 部屋の惨状を前に、憂を苦笑いさせたくはなかった。
 これまでとは違うんだ。この部屋で憂を迎えるということに大きな意味を見出している。一緒に住んでいたときと全く同じ姿を見せるわけにはいかない。だから、今夜は何としてでも頑張らないと。
 そう、明日は憂がこの部屋にやって来る。一人暮らしを始めてから二週間ぶりに、憂の顔を見ることができる。
 
   ○
 
 あの日リビングでした約束通り、駅からできるだけ近い部屋を選んだ。
 憂がなるべく気兼ねなく来られるように。憂に何かあったとき、すぐにでも家に帰れるように。そんなに心配しなくても平気だよと憂は言っていたが、気になるものは気になってしまうのだから仕方がない。
「おわったー……」
 ゴミをまとめ終えると唯はベッドに身を投げ出した。すでに窓の外がうっすらと明るくなってきている。二週間部屋をほったらかしにしていたから予想以上に時間がかかってしまった。ベッドに埋もれた顔をずらして今の時刻を確認する。
 午前五時半か……。
 憂が駅に着くのは確か九時頃だったから、寝ようと思って寝られない時間ではない。ただし絶対に寝過ごすわけにもいかない。
 どうしようどうしようと悩んでいる間にもしかし、抗いようのない睡魔は刻一刻と迫ってくる。部屋が片づいた安心感からだろうか、脳が徐々にぬるま湯へと沈んでいくような感覚に襲われていた。ベッドの柔らかさも相まって目蓋の重みが増していく。

 ピンポーン――
 チャイムの音に意識を引き戻される。

 誰だろうと思いながら気だるい身体を持ち上げる。反射的に発した「はーい」の声にはまだ若干の眠気が含まれていた。扉を開けようとドアノブに手を伸ばし、瞬間、はっと動きを停止させる。
 誰かが来たときは絶対にまず相手を確認すること。お母さんがそう言ってたっけ。危うく何の対応もせずに扉を開けるところだった。
 覗き穴に顔を押しつけ、扉の向こうの人物を確かめる。少しだけ心臓の鼓動が速まっている。変な人だったらどうしよう。わたし一人で追い返せるかな……。
 丸い覗き穴の先に、見慣れた少女の顔を見つけた。
 ポニーテールが上下に揺れて盛大に存在を主張している。
「お姉ちゃーん、いるー?」
 声を耳にした途端、別の意味で心臓が大きな音を立てた。
 玄関の扉を押し開けるや否や、唯は来客者に思いきり飛びかかった。
「ういー!!」
 久しぶりに口に出す名前に愛おしさを覚えながら憂の身体を抱き寄せる。勢いがつきすぎて押し倒しそうになったが、お互いに踏ん張ることでどうにか持ちこたえた。ひとしきり抱き心地を楽しんでから身を離すと、憂はほのかに頬を染めてはにかみ笑いを浮かべていた。
 その反応の意味に遅れて気がつき、唯のほうにも気恥ずかしさがこみ上げてくる。
「ご……ごめんね、いきなり」
「う、ううん。ちょっとびっくりしただけ……だから」
 非常にぎこちない二週間ぶりの生会話。どちらも顔すらまともに見られないまま玄関の前で硬直してしまう。
 単に抱きついただけなのだが、今の自分たちにとってこういった行為がまた違った意味合いを含んでくることをすっかり忘れていた。その、二週間ほど前にいろいろあったので。あのときの光景がはっきりと思い出されてきて恥ずかしさに拍車がかかっていく。
 ああ、と唯は心中で嘆息した。なんかすごく出迎えの仕方を間違えた気がしてならない。いきなりこんな空気になっちゃうなんて……。
「と、とりあえず入ってよ」
 これ以上ここにいると誰かに目撃されそうだったので、身体をずらして憂を招き入れることにする(別に見られたところでどうというわけではないが)。緊張に満ちた頷きを返すと憂は部屋に足を踏み入れた。
「お、おじゃまします」
「いいよお、そんな他人行儀な挨拶しなくても」
 自らも部屋に入って扉の鍵を閉める。鍵が回ったときの金属的な音が、いつもより余計に強く室内に響いた。
 部屋の中央に向かって歩いて行く憂を見ながら、ふと視界の隅に映ったものにぎょっとする。積み重なった半透明の物体――そういえば出しっぱなしにしたまま寝てたんだった! ゴミ袋!
 慌てて近くのクローゼットを開け、引っ掴んだゴミ袋を放り込む。
 きょとんとした顔で振り返る憂に、唯は作り笑いで応じた。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ」
 危なかった……。軽く冷や汗が垂れる。一夜漬けで掃除したのがばれるところだった。クローゼットに寄りかかった背中がにわかに粟立っている。
 気をつけないと。心の中で、静かにそう決意した。
 ちゃんと一人暮らしできていることを、憂に教えなければならないんだ。そうじゃないと……。
 ひとしきり室内を観察すると憂は床に腰を下ろした。一方の自分はというと、ベッドの縁に座って憂とは微妙に距離を取っている。本来なら気分が落ち着く状況のはずなのに、落ち着くどころかさらに緊張が高まっていく感じがする。
 なんだろう、家にいたときとは全然違うこの空気。
 ちょっとでも動くたびに、布の擦れる音や呼吸音が耳に届いてくる。意識しなければどうってことない音にも鼓膜が敏感になってしまっているようだった。否が応でも二人きりなのを強く意識してしまう。
「そうだ! お茶入れないと」
 むず痒い沈黙に耐えきれずベッドから立ち上がった。すると憂もすぐ後を追うように立ち上がって、
「わ、私が入れるよ」
 そんなことを言い出す。ひらひらと手を振って唯は早めに断りを入れた。
「今日の憂はお客さんなんだから」
 でも、と渋る憂を尻目にキッチンに向かう。二人一緒にキッチンに立ったら正直あんまり意味がなかった。お願いだから心の準備というものをさせてくれませんか憂さん。
「はあ……」
 お茶の準備をしながら気づかれないように溜め息を漏らす。無意識とはいえ、いきなり抱きつくのはやっぱりまずかったかなあと玄関前での行為を後悔する。いやまずかったからこんな状況になってるんだけど。あのときは本当に衝動を抑えきれなくて、抱きついた後になってから憂の様子がおかしいことに気がついて、だから、その、決して悪気があったわけじゃ……。
 誰に言い訳しているのか自分でも解らなくなってくる。二人分のお茶を持って潔くリビングに戻ることにした。トレイを支える力加減がうまくいかず、小刻みに手を震わせながらお茶を差し出す。
「ど、どうぞ……」
「ありがとう、お姉ちゃん」
 心持ち苦笑しつつ憂はカップに口をつける。場を支配していた空気が、漂うお茶の香りでほんの少しだけ和らいでいくのを感じた。憂の様子を横目で窺いながら唯もお茶を胃に流し込む。
「お姉ちゃんの入れてくれたお茶、おいしい」
 憂が嬉しげに頬を緩めた。
「えへへ……。でも憂のお茶にはかなわないよ」
 照れ笑いしつつ本心で返す。この先どんなに家事がうまくなったとしても憂を超えることはできないだろうなあという漠然とした確信があった。単に年季や技量の問題ではない、家事に対する気の持ちようからして自分とは何もかも異なっているのだ。一人暮らしをして実感したことの一つである。
 憂がそばにいなくなってから単純に日々の生活が大変になった。誰も助けてくれないし応援すらしてくれない。一人きりなのだから当たり前といえば当たり前なのだが、身近にいた人がいなくなるというのは、精神面でも肉体面でも様々な影響を運んでくることになった。辛かった。何度も家に帰りたくなって、憂の顔を見たくなって……それでも自分をこの部屋に留めさせたのは、他ならないあの約束が胸にあったからだった。
 ――待ってるから。
 一年後、憂が自分と同じ大学に入学して、この部屋で二人一緒に暮らすために。自分は一刻も早く一人暮らしに慣れないといけない。お互い強い志を持って一年の別離を決めたのだから、自分だけが早々と逃げ出すわけにはいかなかった。
 それに……。
「憂、あのさ」
 お茶のおかげで穏やかさを取り戻した部屋の中に、遠慮がちな声が響く。
 話しかけたはいいものの、どう切り出すべきか迷ってしまって後に言葉が続かなかった。憂が訝しげに首を傾げる。
「お姉ちゃん……?」
「えっと、け、軽音部はどう? この前新歓ライブだったんでしょ? あずにゃん、ちゃんと歌えてた?」
 受験のことを訊こうと思ったのだが口が勝手に別の話題を話しはじめた。憂は一瞬きょとんとした後、笑顔になってうんと力強く頷いた。
「梓ちゃん、頑張って歌ってたよ。ふわふわ時間。メンバーが三人だけなのがちょっと残念だったけど……演奏も大きな失敗はなかったし、この調子なら新入部員も入ってくれるんじゃないかって純ちゃんは言ってた。梓ちゃんはまだ少し不安みたいだったけど」
「そっかあ……」
 憂の話を聞きながら、高二になりたての頃をぼうっと思い出していた。そういえば自分たちも新入部員を集めるために色々と奔走した覚えがある。着ぐるみ着て勧誘とか。憂に向かって走っていったら憂逃げちゃうんだもんなあ。
 そうだった。それであずにゃんが軽音部に入って、五人による放課後ティータイムが誕生したのだった。もう二年も前のことになる。思わず「懐かしい」という言葉が唇からこぼれた。大学でも放課後ティータイムは続いているけれど、そこにあずにゃんの姿はない。みんな気にしていることだけど、内心ではどうしようもないことも解っている。でもそれは諦めとかそういうのじゃなくて、来るべき再会を信じての別離。だって自分たちは永遠に一緒なのだ。何を不安がる必要がある。軽音部の絆はそう簡単に断ち切れやしない。
 憂にもこの絆を感じてもらえたらいいなあと思った。あの部室で育んだ沢山の「思い」は、今もかけがえのないものとして胸に残っている。憂の毎日はこれからとても楽しくなるに違いない。自分が保証してもいいくらいだ。
「お姉ちゃんのほうこそ、大学は大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」
「ご飯は大丈夫! ご飯食べないと元気出ないし!」
 鼻息荒くガッツポーズ。しかし憂は途端に表情を曇らせ、心配げな瞳を向けてきた。
「他の家事は……大変なんだ」
「え、あの、その」
 否定できないまま視線を明後日の方角に逃がす。どうやら「ご飯は」の部分を敏感に読み取ってしまったらしい。改めて部屋を見回しながら憂がトーンの抑えた声で言った。
「お姉ちゃん、昨日までこの部屋、結構散らかってたでしょ」
「う……」
 なんでバレたんだろう。ゴミ袋はクローゼットにしまったのに!
 すっかりうろたえて何を言えばいいのか解らなくなっていると、憂が真剣な表情でこちらに向き直った。憂の両目を目の当たりにした瞬間、ああやってしまったなと唯は自らの不甲斐なさを恥じた。猛烈な虚脱感が全身を襲う。
 
 結局……憂を心配させちゃった。
 こうならないように一生懸命頑張ったのに。
 
「本当に一人暮らし、大丈夫なの? もし……もし大変なら」
 そこで言葉を切り、憂は顔を歪めてみせる。この顔には見覚えがあった。本当は言いたいことがあるのに、相手のことを思いやるあまり口にすることができない状態。
 続く言葉は容易に想像できた。もし大変ならいつでも帰ってきていいんだよ――憂はそう言いたいのだろう。でもそうしないのは憂が唯の決断を尊重してくれているからだ。なんて優しいんだろう。優しすぎるほどに優しい。憂とはそういう子だった。
 葛藤の最中にあるのか、憂は顔を伏せて黙り込んでしまっている。先ほどとはまた違った重苦しさに室内が包まれる。お互い何も言うことができない。こういうとき、言葉以上に通じるものを持ってしまっている自分たちが煩わしく感じられてしまう。
 嘘をつき通せるとは最初から思っていなかった。それでも憂には心配をかけさせたくなかったのだ。この一年は憂にとって大事な一年になる。受験や軽音部のこと。他にも多くの物事が憂の背中にのしかかってくる。だからせめて自分の存在だけは憂の重荷になりたくなかった。憂には自分自身のことを一番に考えてもらいたかった。
「ねえ、憂……」
 恐る恐る目の前の少女の顔を覗き込む。
「覚えてる? あの日した約束のこと」
「もちろん、だよ」
 憂は幸せそうに笑って頷いた。
「私が来年お姉ちゃんと同じ大学に合格して、二人でこの部屋に住む。忘れるわけがないよ。大事な約束だもん。お姉ちゃんと私の大事な約束」
 決意のこもった眼差しと共に顔を上げる。向けられた瞳の澄んだ輝きに唯は思わず呼吸を忘れた。
「私、ちゃんと約束守るから。お姉ちゃんと一緒に暮らすためにがんばるから……だから」
 涙目になりながら必死に声を絞り出している。胸の奥深くを掴まれる感覚がした。泣きそうになっているにもかかわらず、憂は精一杯の笑みを浮かべて、
「だから、お姉ちゃんも……一人暮らし、がんばって?」
 そう言った。
 心臓を切り裂かれたような、強い痛みを感じた。
 悲しみに心が呑み込まれていく。
 もういい。もういいからっ……。それ以上優しくならないで。本当の気持ちを口にしてよ、憂。笑っちゃ駄目だよ。我慢なんてしなくていいんだよ!
 気づいたときには憂の身体を全力で抱き寄せていた。憂の痛々しい笑顔をこれ以上見ていられなかった。こんな笑顔をさせるために自分は憂を部屋に招いたのではない。憂を安心させたくて。「わたしは大丈夫だから、憂は憂のことを一番に考えて」――そう伝えたかっただけなのに。
「――まだまだ、だなあ」
 憂の温もりに安堵しながらぽつりと呟いた。抱きついているので顔は見えないが、憂がわずかに身じろいだのだけは解った。
 本当にまだまだだな、と思う。一人暮らしを始めたことで少しは強くなれたかと思っていたが、実際はそんなこと全然なかった。憂を安心させることも、憂から独り立ちすることも、まだまだ当分できそうにない。今日この瞬間にそう気づいてしまったのだ。
 憂がいないと寂しいし何もできないし、一人暮らしの大変さにもたびたび挫けそうになる。そして今日の振る舞いを見た限りでは、憂も同じようなことを思ってくれているみたいだった。自分たちにとって離ればなれの日々というのは、予想していたよりも遙かに大きな試練となっていたのである。一年後に一緒に住もうというあの約束だけが毎日を生きる糧となるほどに。約束した当初から遠いと感じていた一年は、別々に暮らしはじめることでさらに遠い年月のように感じられた。
 
 でも……だからといって。
 ここで逃げ出すわけにはいかない。
 自分たちはもう未来に向けて歩き出したのだから。
 姉妹であることを捨て、新たな関係で結ばれたあの日の記憶を、苦いものにはしたくなかったから。
 
「憂」
 憂の両肩に手を置くと、唯はごくりと一つ唾を呑んだ。不安定な揺らぎを見せる憂の瞳を真正面から直視する。
「ちゅーしよう。ちゅー。そしたら少しは楽になれるよ、きっと」
 あまりにもいきなりな提案に、憂は言われた言葉の意味を理解できていないようだった。「えっ……」と強張った声を上げたのち、やや遅れて頬を赤くさせる。恥ずかしそうに視線を逸らしつつ、甘えた声でうんと短く返事をする。
 憂の頬に手を当ててゆっくりと顔を近づけた。肌をくすぐる吐息の感触を一瞬だけ名残惜しく感じたが、唇から伝わる熱い疼きにすぐさま掻き消されてしまう。つながった。数週間ぶりになる憂とのキスは、耳からありとあらゆる音を消し去っていった。
 それはファーストキスのときと同じ、ただ触れるだけの軽いキス。だけどその一回のキスで忘れかけていた何かを思い出せた気がした。あの日、リビングで憂に一人暮らしをすると打ち明けたときの心境や、憂の見せた涙、そして「憂のお姉ちゃんじゃなくなってもいい」と決心したときの、並々ならぬ覚悟。
 離した唇が外気に触れて熱を奪われていく。
「……なんか、色々思い出した。あの日のこと」
「私も……」
 お互いどこか放心状態になりながら視線を絡ませる。我に返ると同時に、抑えきれないほどのおかしさがこみ上げてきた。嬉しさと幸福感にまみれながら自然と声を上げて笑ってしまう。
 日々の不安や忙しさのせいで埋もれてしまっていたものがあった。そのせいで余計に心がバランスを崩してしまって、辛さだけが目立つようになってしまっていた。
 でも今は多くのことを思い出せたおかげで勇気が湧いてきたような気がして、直前まで抱いていた暗い感情はどこかに飛んでいってしまったようだ。憂の表情からも曇りが取れたように見える。よかった、と胸を撫で下ろした。突然すぎるキスだったけど、悪い方向に動かなくて安心した。
 気持ちだけで歩いていると見えなくなってしまうものが沢山ある。だから時々はこうして触れ合って、心にかかった霧を振り払ってあげないといけない。自分たちが選んだ道は迷いやすいからすぐに視界を見失って不安に見舞われてしまうけど、互いの存在をきちんと感じてさえいれば自然と目指すべき道が開けてくる。そう信じている。
 どんなに迷ったとしても、この想いだけは本物なのだから。
「ねえ、お姉ちゃん」
 身を預けるようにして憂がこちらに寄りかかってきた。
「お姉ちゃんは……その、寂しくなかった? 一人でこの部屋で暮らすようになって」
「寂しかったよ」
 当たり前じゃんという口調で返し、憂の頭に頬を乗せる。憂の髪からは懐かしいシャンプーの香りがした。
「でも、がんばらなきゃって思ったから。来年憂がこの部屋に引っ越してくるまで、元気でいなきゃって思ったんだ。憂との約束、守りたいもん」
「そっか……」
 しばらく何かを考えるような沈黙があった後、憂は小さく口を開いた。
「私も頑張らなきゃダメだね。お姉ちゃんを信じて、自分のことにしっかり目を向けないと。私だってお姉ちゃんとの約束は絶対に守りたいし」
 確かめるように言葉を交わして、二人一緒に頷き合う。やっとお互いにあの日の感覚を取り戻すことができたようだった。随分と時間がかかってしまったけど、通じ合えたならこれ以上の幸せはない。
 大丈夫。自分たちはまだ、前を見て歩けるみたいだ。
「あ、そうだ」
 唐突に閃きが走る。どうしたの、という視線が向けられる中、唯はヘアピンを一個だけ外して憂に差し出した。
「これ……憂が持っててよ」
「いいの?」
 ぶんぶんと首を縦に振ってみせる。憂は目の前のヘアピンを手に取ると少しの間じっとそれを見下ろしていた。「つけてみてもいい?」という問いかけにいいよと答えると、憂はぎこちない手つきで髪を留めてみせた。
「えへへ……。お姉ちゃんとお揃いだ」
 はにかんだ微笑みを浮かべながらヘアピンを指でなぞる憂。四月の柔らかな日光が、憂の髪に留まるヘアピンをきらきらと輝かせていた。
「う、うい……」
 そんな憂の反応があまりに可愛らしかったものだから、それまで大人しかった謎の欲望がむくむくと首をもたげてきた。その欲望は数秒と経たずに臨界点を突破し、抑えきれない衝動となって唯の身体を動かした。
 しょうがない。憂が可愛すぎるのがいけないんだもん!
「ういー!」
「わ――お、お姉ちゃん……んっ」
 憂を押し倒してそのまま熱烈な口づけをお見舞いする。すっかり弛緩しきった空気の室内に、憂の吐息混じりの声が響く。それが余計に興奮を煽ってもはや何も考えられなくなっていた。まさにあの日と同じ、ただ目の前の少女を独り占めしたくて、愛しさに身を委ねているあの感じ。
 一つずつになったヘアピンがぶつかってコツンと可愛らしい音を鳴らせる。
 
 一年後の想像なんてつかない。
 自分はどんな日々を送っているのか、憂がどんな日々を送っているのか、今から考えても解るわけがない。
 不安になるときもあるけれど、好きという気持ちを見失わなければ、約束を胸に宿し続けていれば、自分たちは必ず辿り着くことができる。どちらかが挫けそうになったらそのたびに支え合って、気持ちを伝え合ったあの日のことを繰り返し思い出して、元気になったらまた前を向いて。そうやって一歩ずつ歩んでいけばいい。片方が前を歩くのではなく、共に並び、横を見れば相手の顔が見えるような距離で、寄り添って歩いていくんだ。
「――愛してるよ、憂」
 床に寝転がりつつ憂の髪を撫でる。嬉しそうに目を細めて、憂もまた言葉を紡ぐ。
「私も愛してるよ。お姉ちゃん」
 互いが口にした「愛してる」の意味を噛み締めながら、二人見つめ合い、微笑んだ。


(了)

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