ゆりかご。

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苺ジャムのように、甘く、それは。

作品名:けいおん!(けいおん!!)

 扉の開く音が鼓膜の表層を掠める。
「お姉ちゃん、もう朝だよ。起きないと」
 聞き慣れた声が遠くで聞こえ、唯はわずかに身を動かす。完全に夢の世界に旅立ったままの意識が、次の瞬間、現実に引き戻された。

 憂の声だ。
 あれ、でも、憂はまだ……。

 訊いて確かめたかったが起き上がるほどの力が出ず、「う〜」と気の抜けた返事しかできない。憂が部屋の入り口でくすりと微笑む。
「苺ジャム買ってきてあるよ」
 苺ジャム?
 その一言に、唯のお腹が小さくきゅうと鳴った。
 ほんの少しだけ、全身に力が注がれた感じがする。
 早く起きてねという憂の言葉にまたもや力ない返事をしたあと、もぞもぞとベッドの上で丸まって枕を抱く。起きなきゃ起きなきゃという意思とは正反対に、なかなか身体のほうは目覚めようとしてくれない。ここ数日あまり寝ていなかったから身体が睡眠を欲しているのかもしれない。
 身体を丸めたまま、片目だけで机のほうを見やる。
 軽音部のメンバーから絶賛された歌詞が、カーテン越しの朝日を浴びて輝いていた。
「……へへ」
 思い出しただけで頬が熱くなる。みんなの意外そうな顔、憂にも見せてあげたかったなあ。わたしだって頑張ればできるんだから。みんなのために歌詞だって書けるし、ギターの演奏もだいぶ上手くなったし、それに、それに、おかゆだって作れる。ちょっとキッチン汚しちゃったけど……。
 憂みたいに、おいしいおかゆは、作れなかったけれど。
「……」
 いつの間にか眠気はどこかへ吹き飛んでしまっていた。静まり返った室内が途端に居づらくなって上半身を起こす。
 憂が消えた扉のほうを、唯は少しの間じっと見つめていた。


 こんがり焼けた食パンに、たっぷり載った苺ジャム。
 テーブルを挟みながら憂と朝食を取る。
 いつも通りの朝のはずなのに、どうしてか今日の苺ジャムは飛びきり甘くて美味しくて、この上なく幸せな気分をもたらしてくれた。意味もなく口許がにやける。何だろうこのふわふわした感じ。
「お姉ちゃん、なんだか今日はとっても嬉しそう」
 対面の憂がおかしそうに言う。憂のポニーテールは今朝も綺麗にまとめられていた。
 はっ、と思い出す。そうだ、昨日まで憂は……。
「憂、風邪大丈夫?」
「うん。昨日の時点でだいぶ楽になってて、今朝起きたときには元気になってたよ」
「そっか……」
 よかった、と自然に安堵の笑みがこぼれる。憂の辛そうな姿はもう見なくて済みそうだ。結局ほとんど何もしてあげられなかったけど、治って本当によかった。
 それきり会話が途切れてお互い黙々とパンをかじる。同じ静けさなのに、起きたときに感じた居心地の悪さは微塵も感じなかった。時折ちらちらと憂のほうに視線を向けながら苺ジャムの甘さを堪能する。胸がきゅううと締めつけられる。

 なんだろうなあ。ジャムは確かに甘いんだけど。
 それ以外の不思議な高揚感が、さらにジャムを美味しくしてくれていることに気がついた。
 その高揚感の原因が何かは解らない。もしかしたら文化祭が近いからそわそわしているだけなのかもしれない。部室も戻ってきたし、今日もみんなとバリバリ練習して素敵なライブを作り上げるんだ。毎日毎日そのことだけを考えてみんなと頑張っている。でも……その高揚感とはちょっと違うような気もする。
 食べかけのパンを置いて、腕を組みながらうーんと唸ってみる。この妙なふわふわ感が心地よい一方で、少しだけ怖いと思っている自分もいた。こんな気持ちになったこと、今まで一度もなかったんだけどなあ。

 ふっ、と。
 頬に唐突なくすぐったさを覚えたのはそのときだった。

 いつの間にか憂が身を乗り出して唯の頬に触れていた。間近に迫った憂の顔。こちらを見つめる優しげな眼差し。
 触れられた頬が急激に熱を帯びはじめる。
「う、うい……」
「お姉ちゃん、ほっぺに苺ジャムついてる」
 言うが早いかやや強めに頬を拭って、憂は唯の頬から手を離した。直接触れられていたと思っていたが、憂の手にはティッシュが握られていた。元の位置に戻っていく憂の顔を身動き一つ取れないまま呆然と見送る。
 今……なんか知らないけど、ものすごくドキドキした。
 全然何にも言えなかった。
 憂のアップがいまだに目に焼きついている。いきなり近くにいてびっくりしたっていうのもあるけど、あれ、でも、今まで憂が突然近づいてきても別に驚いたりしなかったのに、おかしいな、なんで今日に限って……。
 もやもやした感情が胸の底に溜まりはじめる。変だなあと思いながら残りのパンに口をつけた。ジャムの湿気でパンはちょっとずつ湿りはじめていた。
 
 
 少し遅めに朝食を終えて席を立つ。
 そろそろ出発しないといけないのだが、憂がキッチンで洗い物を始めてしまったので、一足先に玄関で待つことにした。ほっほっとその場で足踏みしながら早く憂がキッチンから出てこないか顔を覗かせる。
 それにしても……と、先ほどの朝食でのことを思い出していた。
 まだわずかに身体がぽかぽかする。特別温まるようなものは食べてないはずなのに。それになんだか憂のことを真正面から見られない。すごく不思議で自分でも何がどうなってるか解らないんだけど、憂と目が合うと自分のほうから顔を逸らしてしまう。
 水の流れる音が止まった。
「ごめんねお姉ちゃん、遅くなっちゃって」
 鞄を手にした憂が慌てた様子で駆けてくる。ちょうどいい、と唯は一人頷いた。
 靴を履く憂の顔をまじまじと覗き込んでみる。持ち主の動きに合わせて揺れるポニーテールが視界の上隅に映る。
 立ち上がると同時に顔を上げた憂は、ぎょっとしたように身を仰け反らせた。
「お、おねえちゃん……?」
「じー……」
 明らかに引かれているのは解ったがやめるつもりはなかった。時間も忘れて憂の瞳を凝視する。
 なーんだ、全然見れるじゃん。さっきはやっぱり苺ジャムのせいだったんだ。ジャムがあんなに美味しすぎたから、気持ちまで舞い上がっちゃっただけで。いつもよりジャムが甘く感じたのも、別に憂が原因だってわけじゃなくて――
 そこまで考えたところで、唐突に思考が固まった。
 引きかけた熱が一瞬にして全身に戻ってくる。
 見える。というより、その瞬間、その場所に、見えてしまった。
 憂の瞳に映る自分の顔が……ひどく切なげで、何かを我慢しているような表情を浮かべていたのを、見てしまった。
「――っ」
 途端に恥ずかしさが湧き上がってきて憂から視線を外す。わたし、こんな顔して、憂のことをずっと見つめてたの……? 明らかにいつも通りじゃない。まるで自分のほうが風邪を引いてしまったかのようだった。顔すごく真っ赤だったし!

 すぐそばから「あっ」という声が聞こえた。

 声のしたほうに視線を移す。身を反らした憂がそのまま後ろに倒れそうになっている様子が、スロー映像のようなスピードで視界に流れてきた。
「憂!」
 無意識に腕を伸ばし、憂の手首を掴む。
 しかしギー太を背負った状態で抱き起こせるはずもなく、二人折り重なるようにして床に倒れ込んだ。
「あいたたたぁ……」
 間一髪憂の上にのしかかるのは避けられたが、おかげで肘の辺りを打ってしまった。慌てて身を起こした憂が心配げな顔を向けてくる。
「お姉ちゃん大丈夫!?」
「平気だよー、憂は?」
 私も平気、という憂の返事にほっとする。ギー太を背負った自分が上に乗っかってたら危ないことになっていたかもしれなかった。憂を庇ったことで肘がちょっと痛いけど、でも、怪我がなくてよかった。
 憂が心配そうにこちらを見下ろしている。
「ごめんね、踵が段差にぶつかって、バランス崩しちゃって……」
「いいよぉ。わたしも急にあんな、変に見つめるようなことしちゃって、ごめんね」
 憂と視線を交えながら、やがて二人同時に笑い合う。謝り合っている自分たちが妙におかしくて笑いを堪えきれなかった。それはどうやら憂も同じようでくすくすと抑えた笑い声を上げている。
 心臓が一つ、とくんと大きな音を立てた。
「あ……時間」
 憂が思い出したように漏らす。急に現実に戻された感覚ののち、一拍遅れて唯も「ああ!」と大声を発した。
「遅刻! 遅刻しちゃう!」
 大急ぎで憂を立ち上がらせて玄関の扉を開ける。頭上からは、晩夏にはまだ早い照りつけるような陽射しが降り注いでいた。


 やっぱり、何か変だ。外に一歩踏み出してそう思った。
 憂のことが愛おしくてたまらない。
 今までだって大好きな妹だったけど、今日抱いたこの愛しさはそれとはまた全然違っていて、苦しくなったり、嬉しくなったり、自分でもよく解らない感じの愛しさだった。もっと憂の顔を見たいのに、抱きつきたいのに、そういうことが一切できない。もどかしい愛しさだった。
「ねえ、憂」
 心持ち足取りを速めながら学校を目指す。その途中、唯は思いきって隣の憂に訊ねてみた。
「憂はさ、急に誰かの顔を見られなくなったりしたことってある?」
「それって、恥ずかしくてってこと?」
「うーん、恥ずかしいっていうのもそうだけど、なんか見られないの。目が合ってもすぐ逸らしちゃうし」
 憂は口許に指を当てながら中空を見上げた。あ、と何かを思いついたのかこちらを振り向いて、
「それって、恋なんじゃないかな」

 足が止まった。

 訝しげな表情を浮かべる憂を前に、「こ、ここ」と言葉にならない声を上げる。憂のまさかの発言にあれこれ考えていたことが全部吹き飛んだ。え、だって、恋ってそんな。それじゃあわたしは憂に恋してるってこと? ええーっ!?
 何が何やらで頭の中がいっぱいいっぱいになる。憂の笑顔がやけにきらきらと輝いて見えた。思わず顔を覆いたくなったがそんなことしたら間違いなく、バレる。色々と。――バレる? ち、ちがう! わたし、別に憂に恋してなんか……!
 誰に対してか解らない言い訳を必死になって紡ぎ続ける。「あ、時間……お姉ちゃん、急がないと遅刻しちゃう!」憂が強引に手を取って走り始める。掴まれた手首が痛いほどに敏感になっていた。
 引っ張られるがままに走りつつ、元気に跳ねる憂のポニーテールを眺める。
 憂に言われたたった一つの単語が脳内を巡っていた。

 恋……かあ。
 ちっとも実感が湧かないけど、この気持ちを持ち続ければ、憂のことをもっと大切にしてあげられるのかな。
 わたし忘れっぽいから、この「好き」って想いを持ち続ければ、憂の大切さをずっと忘れずにいられる気がする。
 だから、ちょっとだけ怖いけど……この気持ち、大事にしていこうかなと思うんだ。
 だって憂と一緒にいるだけでこんな幸せな気持ちになれるなんて素敵だし、憂のこともっともっと好きになれるかもしれないし、いいことずくめな気がするんだもん。無理に捨てる必要なんてない。憂のことが大切なのは変わらないんだから。
 全ては一昨日の夜、憂が風邪を引いたときから、憂の存在は少しずつ自分の中で形を変えていった。いつも傍にいてくれる大事な存在。でも近すぎて、当たり前すぎて、気づかなかった。
 気づくことができた今、自分は……自分にできることをしたい。憂のためにできることを。それを忘れないためにはこの気持ちが必要なんだ。
 だから――
 
 掴まれた腕を解き、憂の手を握る。
 驚いたようにこちらを振り返る憂に、唯は満面の笑みで応じた。
 
 繋いだ手から熱く、痛いほどの温もりが伝わってくる。
 
 
 (了)

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