ゆりかご。

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お姉ちゃんのいない夜

作品名:けいおん!(けいおん!!)

 純をバス停まで見送ってから、梓と別れ、帰路に就く。
 薄暗い道を歩きながら憂は今日一日のことを思い出していた。動物園に行けなかったのは残念だけど、結果的には楽しく過ごせたと思う。最後には雨も上がって素敵な夕焼けを見ることもできて、まさにいいことづくめな一日だった。
 家の前まで辿り着くと妙な違和感に襲われたが、身体は自然に鍵穴に鍵を差し込んでいる。小気味よい金属音と共に違和感は静けさに霧散した。しかし扉を開けてただいまと口にした瞬間、違和感の正体に憂は突如として気がついた。

 家が暗い。人の気配がない。ただいまと言っても、おかえりと返してくれる人がいない。

 そういえば、そうだった。楽しさに流されて忘れていたが、今日もまだ彼女はいないのだった。帰ってくるのは明日、姉の唯が修学旅行から帰ってくるまで、まだ一晩残されている。



 かすかに梅雨の香りを含んだ風がリビングに流れ込む。
 憂はテーブルに肘を突きながらぼんやりと中空を眺めていた。がらんとしたリビングは昨日までの賑やかさが嘘のように静まり返っている。ただ一つ時計の針だけが規則正しいリズムで音を紡ぎ続けていたが、その音ですら鼓膜の表層を掠めていくばかりだった。
 いない。唯がいない。昨日は純たちがいてくれたから何とか実感せずに済んだが、こうして一人になってしまった今はそうもいかなかった。唯の不在という事実だけが背中に重くのしかかる。毎日どこかしらで聞こえていたギターの音色も今は沈黙を保っている。

 はあ、と溜め息が漏れた。
 一日の疲れもあって、今日はもう何もしたくない気分だった。

 夕飯はすでに手頃なもので済ませてある。特に誰かに食べてもらうことがないのであれば、気合いを入れて作る必要性も減ってしまうというものだ。掃除も洗濯も明日やればいい。今日はもうお風呂に入って寝るだけ。
 そうだ、寝てしまおう。力強く頷いた。早めに寝てしまえばその分明日が来るのも早くなる。こんな空虚な気持ちも抱かなくてよくなる。……よし、そうと決まれば。
 憂はテーブルから離れると入浴の準備を始めた。絨毯を踏む音がいやに大きく周囲に響く。胸がざわついていた。それはまだ辛うじて自覚できるくらい弱いものだったけれど。


 普段より手早く全身を洗い、湯船に身を沈める。
 天井から落ちる雫が水面に波紋を生む。いつもなら別段気にならないことでも、今日に限っては変に気を引かれてしまっていた。自分が自分でない感じがしてどうも収まりが悪い。
 浴室の静寂はリビングとは比べものにならないほどの強さで憂を取り囲んでくる。思わず膝を抱えて口許までお湯につかった。少しでも肌を出しているとすぐに体温を奪われそうだった。
 浴室なんて、別に今日じゃなくたって静かなのには変わらないのに。
 どうしてこんなにも……息苦しく感じてしまうのだろう。

『でも、そんなにお姉ちゃん好きで寂しくないの? 明後日まで帰ってこないんだよ?』

 純に言われた言葉が今になって脳裏に蘇る。
 寂しくないわけが、なかった。他の誰でもない、唯が家にいないのだから。明日帰ってくるんだからと自分に言い聞かせたが駄目だった。どうやったってこの寂しさは、この心細さは、拭い去ることなんてできなかった。
 本当はずっと、心のどこかでは、唯のことだけを考えていた。純や梓がいてくれたときも、もしかしたら考えていたかもしれなかった。それほど自分にとって唯の存在は大きく、替えが利かなくて、たった数日会えないだけでここまで心を乱してしまうほど、かけがえのない存在で……。
 また一つ、天井から水滴が落ちてくる。円上の波は鼻先をくすぐりながら消えていった。
 穏やかになった水面、その上に、真新しい小さな揺れが生まれては広がっていく。

「あ、れ……」

 頬に触れる。いつの間にか、自分でも気づかないうちに涙がこぼれていた。

「……お姉ちゃん……」

 こぼした嗚咽が辺りに反響する。感情を抑えていた堤防が、自分の発した一言で完全に崩壊した。絶え間なく流れる涙が荒々しく水面を叩く。
 お姉ちゃん。やっぱり一人は寂しかったよ。
 我慢しようと思ったけど、できなかった。
 お姉ちゃん。お姉ちゃん。お願い、早く帰ってきて……。
 傍にいたいの。笑顔が見たいの。その温かさで私を包んでほしいの。
 私には……あなたがいないと駄目なの。お姉ちゃん。

 次々と浮かぶ感情に涙腺が耐えきれず、まるで小さい子がそうするように、憂は声を上げて泣いた。

   *

「はあ……」

 ドライヤーで髪を乾かしながら深く嘆息。生乾きのまま電源を切り、鏡の前に立ってみる。
 酷い顔だなあと思った。思いきり泣いたからか目が赤く腫れている。明日まで腫れが引かなかったらどうしよう。お姉ちゃんのことだから色々気づかれてしまいそうで怖い。
 戸締まりを確認し、リビングの明かりを消して自室に向かった。階段を上る一歩一歩の足取りが重くて堪らない。
 自室に入る前に、ふと隣の部屋に視線を移してみた。もちろん人の気配がするわけもなければ、楽しげなギターの音色が聞こえてくるわけでもない。部屋の主は不在だ。
 そんな部屋を眺めているとまた涙が出そうになったので、憂は慌てて目の奥に力を入れた。これ以上泣いたら明日は本当に顔を合わせられなくなる。それでも気持ちはすっかりざわめきに支配されていて、一瞬でも気を抜くと孤独に押し潰されそうになる。

 これでは一人で眠れそうもない。

 どうしようもないが、全くの本心だった。今の状態で部屋に一人というのは、なんかもう想像しただけでどうにかなってしまいそうだった。

「そういえば……」

 自然と呟きが口をつく。昨日、梓たちが泊まりにきたときに出しておいた敷き布団のことを思い返していた。確かまだ部屋の隅に畳んで置いてあったはず。
 心臓が高鳴りはじめる。唐突に思いついた行為に自分自身で恥ずかしくなった。でもこれなら、寂しさを少しは紛らわせることができるかもしれない。
 しばらく扉の前で悩んだ末、憂は自室に飛び込んだ。
 明かりすら点けずに室内を見回し、目的のものを探す。あった。綺麗に並んで折り畳まれた二つの敷き布団。
 そのうち自分の使ったほうを抱えると、憂は脇目もふらずに部屋を後にした。そしてやや震える手で隣室のドアノブを捻りはじめる――唯の部屋のドアノブは冷たかった。唾を呑み込む音が全身に伝わり、ぴりぴりとした緊張がにわかにこみ上げてくる。

 今日だけ、今日だけだから。

 まるで許しを請うかのように心中で何度も繰り返す。罪悪感に苛まれながら、それでも覚悟を決めて憂は目の前の扉を開いた。入り慣れたはずの部屋に足を踏み入れることが、そのときばかりはとても悪いことをしているような気分になった。
 持ち主の温もりを感じられない部屋。しかし今は、自分の部屋より何倍も居心地よく感じられる。今求めているものの欠片がこの部屋にはちりばめられていた。よかった、ここならきっと……。
 持ってきた敷き布団をベッドの隣に広げ、そっと身を横たえる。段差があるのでベッドの上を見ることはできないが、不思議とそこには唯がいるような気がした。「見えないのにここにはいる」という不思議な安心感にどこか懐かしさを覚える。
 おやすみお姉ちゃん、と声をかけて目を閉じた。続けて言おうとした「ごめんね」は、安堵のまどろみの海に溶けて次第に見えなくなっていく。

 昔、まだ同じ部屋で一緒に眠っていたときのことをその夜は夢に見た。

   *

 翌日。
 素早く部屋を元通りにして、憂は唯の帰りを待っていた。
 しおりをきちんと見なかったせいでいつ頃帰ってくるのかが解らない。だからもう意識せず普段通り待っていたほうがいいのだが、今の自分にそれは不可能というものだった。掃除も洗濯も終わらせたところで特にやることもなく、そわそわした気持ちを抱きながら昼食の準備を始めようか迷っていたとき。

 ――カチャン。

 玄関のほうから鍵の開く音がして、憂の心臓が跳び上がった。

 か、帰ってきた。
 どうしよう、出迎えるべきだろうか。でも変に意識してるのがばれたら恥ずかしいし。でもでも一刻も早くお姉ちゃんの顔は見たいし……っ!

「ただいまー」

 唯の声が耳に届く。
 ぐちゃぐちゃになっていた思考が一瞬で蒸発した。
 いつも通りの朗らかな顔に、それでも多少の疲労を宿しつつ、唯がリビングに入ってくる。

「やっほー、憂、久しぶり! あれ、何日ぶりだっけ?」
「え、と」
「ギー太! ギー太のこと見に行かなきゃ! あ、そういえばりっちゃんたちも家着いたかな。電話してみよっと」
「あ、あのね、おね」
「あ、もしもしりっちゃん。もう帰った? うん、うん、えへへ、そっかー」

 すっかり電話に夢中になってしまった唯を前に、憂は伸ばしかけた手を引っ込めた。
 唯の背中から嗅ぎ慣れない匂いが漂っている。知らない土地の匂いだろう。旅行に行ってきたのだから当たり前のことだ。
 唯自身に特別変わった所はなかった。相変わらずのマイペースで、見た目だって出発前とほぼ一緒。それなのに、憂の目に映る唯はこれまでの彼女と何かが違っていた。一体唯のどこが変化したというのか。
 引っ込めた手を握りしめる。
 確信めいた閃きが頭をよぎった。ああ、もしかしたら、変わったのは唯ではなくて……。

「うん、じゃあまた学校でね。ばいばーい。さあて、次は澪ちゃんに……」

 唯の電話が終わった。と思ったら今度は澪に電話をかけるらしい。
 このままではいつまで経ってもこちらを見てくれない。何か猛烈な焦りに急かされて、憂は勢いのままに唯を後ろから抱きしめた。  まだ言ってない。帰ってきたら一番に言おうと思っていた、あの言葉を。

「……憂?」
「おかえりなさい……お姉ちゃん。おかえりなさい」

 顔を見て言うと、伝わってしまいそうな予感がしたから。
 唯の背中に頬を当てて、憂は短くそう口にした。
 変わってしまったこの心を悟られてはいけない。唯が後ろを振り向けないよう、腰に回した腕に力を込める。

「――ただいま、憂」

 間近から優しい声が降り注ぐ。溢れ出しそうな愛おしさが憂の全身を駆け巡った。
 大好きな人が帰ってきた。ようやくその事実が実感を伴いはじめる。
 ちょっとの苦みと、それを上回る幸福が、憂の胸を満たしていく。もうそこに言葉はいらなかった。この温もりが全てを教えてくれたから。

 梅雨を前にした日の昼下がり。開け放った窓の向こうでは、早くも蝉の鳴き声が聞こえていた。



(了)

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