ゆりかご。

「キミ」って誰?

作品名:けいおん!(けいおん!!)

 夕食の準備をしていると遠くから物音が聞こえた。

 憂はコンロの火を止めて玄関のほうに駆けていく。顔を覗かせると同時に元気な声でただいまが飛んできた。ギー太を背負った唯がいそいそと靴を脱ぎ捨てている。
「お姉ちゃん、おかえり」
 転がった靴を整えながら振り返るも、唯の姿はもうどこにも見当たらなかった。
 試しに耳を澄ましてみたが足音らしきものも聞こえない。小首を傾げつつ、憂はリビングに足を運んでみる。
 両腕をYの字に広げた唯がリビングの真ん中に突っ立っていた。
「お姉ちゃん……何してるの?」
「木です!」
 自信満々にそう返される。ちょっとまだ意味がよく解らない。
「木Gです!」
「ああ」
 そこでようやく合点が行って、憂は小さく頷いてみせた。
「ロミオとジュリエットの配役、決まったんだ」
「うん。澪ちゃんがロミオで、りっちゃんがジュリエット。わたし木の役だって」
 木の役……。
 にわかには情景を想像できない役名である。今唯がやっているように両腕を上げてひたすら動かない役なのだろうか。大道具とかじゃ駄目だったのかな……。まあでもこれはこれで可愛らしいし、本人もやる気満々みたいだから、水を差すようなことは言わないでおく。
「木はね、動いちゃいけないんだよ。腕はこの角度が大事。斜め四十五度!」
 唯の瞳が輝きに満ちている。
 その見事な体勢に見惚れていると、ふと自分が料理中だったことを憂は思い出した。慌ててキッチンに舞い戻り、制服姿のまま直立している唯に声をかける。
「もうすぐご飯だから着替えてきて」
「はーい」
 瞬く間に木の役から人間に戻って唯はリビングを出ていく。さすがの木Gも、夕ご飯の前では変身を解かれざるを得ないようだった。
 
 
「ごちそうさまー」
 ダイニングに朗らかな声が響く。満足げな顔で唯は軽く頭を下げた。
 近頃、食事のときの唯の態度が変わった気がする。本当に小さな変化だけど、今まで以上に美味しそうに、幸せそうな表情を浮かべて食べてくれるようになった。作った側としてはこれほどまでに嬉しいことはない。
「お姉ちゃん、最近すっごく美味しそうにご飯食べてくれるよね」
「うん。だって憂の作ってくれたご飯だもん。美味しいに決まってるよ」

 さも当然という口調で返ってきた言葉に箸が止まる。

「……そっか、えへへ」
 照れくささを短い笑いでごまかしたあと、憂は箸の動きを再開させた。面と向かってこんなことを言われたのは久しぶりだったから、どう反応すればいいか解らなかった。
 夕ご飯を終えてそれぞれ自由な時間に入る。憂が食後の後片づけをしていると、唯はまたいつものように自室からギー太を持ってきて早々に練習を始めた。静かだった室内が沢山の音符に彩られる時間。
 はじめは気の向くままという感じに音を鳴らして、次第に聞き覚えのあるメロディへと演奏を発展させていく。この移り変わりが毎回耳にしていて楽しい。今日は何の曲になるんだろう。予想しながら食器を洗うのが自分の密かな日課となっている。
 しかし今回聞こえてきたのは耳覚えのないメロディで、憂は思わず食器を洗う手を止めて、リビングのほうに視線を注いでしまった。TAB譜と格闘している唯の背中が見える。
 ここ数日の唯の言動を回想して、憂は「そういえば」と一人合点した。
 学園祭でやる新曲のために、軽音部全員で歌詞を作ったって言っていたっけ。唯の歌詞もその中から選ばれたと聞いた。今練習しているのはその新曲に違いない。確かタイトルは――。
「U&I……」

 口にした瞬間、顔に熱が集まるのが自分でも理解できた。

 憂は慌てて食器洗いに舞い戻る。少しでも火照りを抑えようと、冷水に手を浸して一つ小さな溜め息をつく。
 あの歌詞は……色々と考えてみたけど、たぶん、自分に向けてのものなのだろうと思う。でもこちらが勝手に誤解しているだけという恐れもあるし、変に意識して違っていたらと思うと恥ずかしくていたたまれない。いや、でもあれはやっぱり……。
 もちろん本人に歌詞の意味を訊くことは躊躇われたから、憂の中であの歌詞は、期待と不安の入り交じったひどくアンバランスな存在となってしまっていた。目を通して以来、もやもやとした気持ちを常にどこかで抱き続けている。「キミ」が指す人物とは一体誰なのか。それがもし自分でなかったとしたら……?
 奏でられたメロディが室内でたどたどしく踊っている。憂は沈みかけた思考を無理やり引き上げることにした。考えるだけ無駄なのは十分に解っている。
 時間が経つにつれ、演奏は中途半端なところで途切れることが多くなってきた。時折「うーん」や「あれー?」といった苦難の声も届いてくるので、どうやら相当苦労しているらしい。
「うーいー……」
 ついに駄目だと悟ったのか、間延びした唯の声がリビングから飛んできた。
 ちょうど後片づけも終わったところなので、火照りが抜けたことを確認してから、唯の待つリビングに赴くことにする。
「ここの場所がうまく弾けないんだよ」
「どこ? ここ?」
 エプロンで手を拭いながらTAB譜を覗き込む。このTAB譜も三年近く触れてきたのでさすがにある程度は読めるようになっていた。お姉ちゃんがギターを始めた頃はお互い手探りで練習してたっけ。二年前のことなのに、もう遠い昔のことのように思える。

 不意に頬の辺りに視線を感じ、憂は横を振り向いた。
 やけに真剣な表情でこちらを見つめる唯と視線が合った。

「……どうしたの?」
「え? あ、ううん、何でもない」
 とてもそうとは思えない反応に憂は首を傾ける。唯がおちゃらけた態度で口笛を吹きはじめた。どうやら詮索はしてほしくないらしい。違和感に後ろ髪を引かれつつもTAB譜に視線を戻す。
「この歌詞ね」
 紙面最上部にある『U&I』の表記が気になって集中できない。
「憂のおかげで書けたんだよ」

 譜面を追っていた目が動きを停止した。

 ゆっくりと顔を上げて斜め後ろを振り返る。ほのかに頬を上気させた唯がはにかんだ笑みを浮かべていた。
「憂がいてくれたからこの歌詞が書けたの。この前憂が風邪引いたときにね、思ったんだ。大切な、大事なものでも、いつも傍にいてくれると気がつかないんだなって」
 唯の髪が扇風機に煽られて小さく揺れる。唯の視線は真っ直ぐ憂を射貫いている。
「憂が傍にいてくれることが当たり前になってて、わたし、あのとき本当にどうしようって焦っちゃった。一人で憂の看病できるかなって心配だったし、あ、結局おかゆしか作ってないんだけどね。えへへ。それで、そのとき思ったことを歌詞にしてみたのがこの『U&I』なの。これ、憂のことを思って書いた歌詞なんだよ」
「そう、だったんだ……」
 ぽつりと、ただそれだけを返す。そっか。そういうことだったのか。今の言葉で、色々なことが納得できそうな気がした。

 ――キミがいないと何もできないよ。キミのごはんが食べたいよ。

 このところ唯に訪れていたかすかな変化。その原因。
 ご飯を美味しそうに食べてくれるのも、ちょっとした気遣いをしてくれるのも、全部そんなことがあったからなのか。あの夜、唯はとても心配そうな面持ちで自分のことを気にかけてくれていた。普段料理なんてしないのにおかゆまで作ってくれた。思えば玄関でじっと見つめられて、バランスを崩して二人で転倒したのもあの夜が明けてからのことだった。
 もやもやが消えていくのを実感する。それと同時に今度は締めつけられるような、しかしどこか甘い痛みが胸を襲った。唯の照れた顔がいつも以上に愛しく見えた。
「だから本当は最初に憂に聴いてほしかったんだけど……ムギちゃん時々難しいメロディ作るんだもん。TAB譜もどんどんややこしくなっていくし」
 唯が口を尖らせる。その様があまりに可愛らしくて、憂はつい吹き出してしまった。
 笑い事じゃないよーと唯はさらに頬を膨らませて不満を露わにする。
 溢れそうになる想いを笑顔に変えて、憂は唯の手を取った。
「じゃあ、一生懸命練習しないとね。私も手伝うから。二人で頑張ればすぐに弾けるようになるよ」
「ありがとう、ういー。そうだね、頑張らないとね!」
 胸の前で握り拳を作りつつ、唯は意気込んでみせる。TAB譜とにらめっこしながら時折視線を交わし合って、そのたびにお互い微笑み合うといったことを何度も何度も繰り返す。心が温かい。隣にあなたがいるから、こんなにもほっこりしているのかな。
 段々とほぐれていくギー太の音色が、夜の静寂を深めていく。
 
 二人いたから生まれた曲が、他ならぬ二人の手によって、少しずつ形を伴っていく。
『U&I』。あなたとわたし。この先何があったとしても、ずっと一緒にいつまでも、手を繋いで歩いていこう。


(了)

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