ゆりかご。

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当たり前の日々に、手を振って。

作品名:けいおん!(けいおん!!)

 気がつけば胸に灯っていた。
 温かくて、柔らかくて、でも言葉にするにはまだ未熟すぎる想い。なんと呼べばいいかも解らない、芽吹いたばかりの曖昧で小さな想い。
 伝えたい人がいた。誰よりもまず、真っ先に「ありがとう」を伝えたい人がいた。でも直接言うのは恥ずかしかったから、想いを歌に込めることにした。U&I。いつしかこの曲は自分だけでなく、澪や律や紬や梓の「ありがとう」をも包み込んでいって、みんなの曲へと変化していった。
 
 だけどね。この気持ちが消えるようなことはなかったんだ。
 あのライブが終わった後もずっと残り続けている。キミの笑顔を見るたびに胸の奥が不安になる。
 ねえ、憂。わたしの「ありがとう」は、本当にキミに届いたのかな――。

   ○

 ごちそうさまー、と手を合わせる。
 綺麗に空いた皿を見て、対面の憂が嬉しそうに微笑む。
 夕食が終わると唯はすぐさま椅子から立ち上がった。憂の横を通り過ぎ、勉強途中のまま放置してきたテーブルに戻ろうとしたところで、ふと忘れかけていたことを思い出す。足を止めて自分の席を振り返る。
「お姉ちゃん……?」
 憂が不思議そうな表情で覗き込んでくる。唯は置きっぱなしにされた食器を手に取ると、テーブルからキッチンに行き先を変更した。憂の視線を受けながらシンクに食器を置いて蛇口を捻り、水に浸された食器を前によしと満足げに一呼吸。
「どうしたの、普段ならそのままなのに」
 投げかけられた問いに、唯は後頭部を掻きながら高揚気味に答えた。
「いやあ、今日はちょっとこんな気分でして。あ、よかったら洗っておく?」
「ううん、いいよ。お姉ちゃん受験生なんだから、後片づけは私に任せて」
 苦笑気味にそう言われ、唯はまくった袖を静かに下ろした。
 あ、うんと短く返事してシンクの食器に視線を落とす。開かれた窓から届く秋の虫の合唱が頭の上を素通りしていく。
 キッチンを去る際に、食事を続ける憂の背中に横目を向けてみた。物を噛むたびに揺れるポニーテールがなんだか別の生き物みたいに思える。食事に夢中なためかこちらを振り向く様子はなく、見つめられていることに気づく素振りすらない。憂から視線を外すと唯はテーブルに戻ることにする。

 乱雑に広げられた参考書たちを見下ろしつつ、心中で小さな溜め息をついた。
 もやもやした感情を抱きながらテーブルにつき、解きかけだった英語の長文に目を通す。
 せっかく手伝おうと思ったのに……。受験生って言ったってずっと勉強してるわけじゃないんだし、ちょっとした息抜きのつもりだったんだけどなあ。それなのに憂ってば……。
 愚痴混じりの独り言を脳内で垂れ流す。乗らない気分で英文と睨めっこしていると、やがてキッチンのほうから水音が聞こえてきた。食事を終えた憂が後片づけを始めたのだろう。なんてことのない、これがいつもの光景で。
 頼まなくても憂が全てやってくれる。大変な仕事だってあるはずなのに、文句一つ言わずに自分たちの生活を支えてくれている。朝起きられるのも、ご飯が食べられるのも、お風呂に入れるのも、気持ちよく眠ることができるのも、全部全部憂のおかげ。
 口許でカチリと音が鳴る。無意識のうちにシャープペンの頭部を唇に強く押しつけていた。苛立ちに似た焦燥感が胸の辺りをぐるぐると回っている。
 
 暑くて堪らなかった夏は学園祭ライブの熱気に追いやられたかのごとく姿を消し、過ごしやすい気温を伴った秋がいつの間にか当たり前のように腰を落ち着けていた。制服もこの間移行期間を迎えたばかりで、クラスにはちらほらと紺色のブレザー組が見られるようになっている。部室でみんなして暑い暑いと唸っていた日々がもう遠い過去のようだ。ライブが終わってから急激に時間の流れが速くなった気がする。

 あの日、憂が風邪で寝込んだときから、自分は多くのことに気づいてきたはずだった。
 軽音部のみんなと力を合わせて、U&Iという立派な曲を作り上げて、今まで伝えられなかった沢山の「ありがとう」をこの曲を通じて伝えようと思った。学園祭ライブには大勢の人が集まってくれたしみんな盛り上がってくれたから、この想いはきっと伝わっているはず。そう信じてばかりいた。
 でも、このところの憂の態度を見ていると……その自信は萎んでいくばかりだった。
 憂は今日も相変わらず憂のままで、自分も相変わらず自分のままで、これではただ気づいただけで終わってしまう予感がした。でも駄目なんだ、それでは。憂がそばにいることが当たり前だと考えていたから今まではそれでもいいと思っていたけど、本当はもっと憂のこと、大切にしなくちゃいけないんだ。気づいただけで終わらせてはいけないんだ。
 わたしだって、頑張ればそれなりに手伝えるんだよ。憂の負担を少しでも減らしてあげられる。たぶん、だけど。
 だからさ、憂。ねえ、お願い……。

 キッチンから出てきた憂が、「あ」と小さく声を上げた。
「洗濯物取り込んだままだった……畳まないと」
「わたしがやるっ」
 憂の言葉に、考えるよりも先に身体が動いた。シャープペンを放り捨てて唯は即座に立ち上がる。憂が虚を突かれたような表情でこちらに視線を向けた。
「え、でも……」
「いいからいいから! 洗濯物どこ? 上?」
 憂の戸惑いには気づかないふりをして階段に歩み寄る。明かりの点いていない階段は、自分の家だというのにひどく不気味な空気を漂わせていた。思わず後ずさってしまいそうになる気持ちを奮い立たせ、薄闇に一歩足を踏み出す。
 唯の動きを遮るように、憂が背後から声を投げた。
「いいよお姉ちゃん、私がやるから」

 周りの空気がしんと冷たくなる。

 前を向いたまま、唯はできるだけ声を明るく保った。
「なんで? わたしだって服畳むことくらいできるよ」
「でもお姉ちゃん、受験勉強……」
「大丈夫だよ。ちょうど息抜きしたかったところだし」
 半ばこちらから会話を断ち切るように階段に足をかける。瞬間、振り出した腕を憂に掴まれた。
 はっとして後ろを振り返る。憂は不安げな面持ちを浮かべながらも、瞳に確かな力強さを讃えて、静かに首を横に振った。
「……どうして」
 憂に手首を掴まれたまま視線を床に落とす。触れた肌越しに届く温もりが痺れるような痛みを与えてくる。
「どうして、何もさせてくれないの? わたしだって頑張れば憂のこと手伝ってあげられる。なのに」
「お、お姉ちゃん」
「そりゃ、失敗しちゃうかもしれないけど……でも、憂が風邪引いたときはおかゆだって作ってあげられたし、わたし、何もできなくなんか」
「そうじゃないの、ねえ、お姉ちゃ」
「もういい」
 腕を振り解き、投げやりに言い捨てて、自室に続く階段を上る。憂が何かを話していたが、耳に異物が詰まったような感覚のせいで最後までその声は頭に入ってこなかった。空気が寒い。暗くて階段がよく見えない。だが一歩一歩に注意を向けていられる余裕はない。

 腹が立っていた。何もさせてくれない憂に。そして、何もさせてもらえない自分自身に。

 部屋に戻ると唯は一目散にベッドへと潜り込んだ。頭から布団を被ってきつく目を閉じる。今はもう誰の顔も見たくなかった。不甲斐なさが重りとなって全身にのしかかってくる。
 ……こんなにも自分は信用されていなかったんだ。そういえば今までも何度か手伝おうとして断れたことがあったし、本当はいつも邪魔だと思われていたのかもしれない。
 情けなくて涙が出てくる。年上なのに、お姉ちゃんなのに、憂にしてあげられることがこんなにも見つからないなんて思わなかった。ギターが弾けるようになって、自分でも色々成長したつもりでいたけれど、実際のところは何一つ変わっていなくて、憂の手助けをすることさえできずにいる。憂がいないと本当に何もできないんだ、自分は。
 憤りが徐々に罪悪感へと変化していく。去り際に一瞥した憂の困惑した表情が頭から離れず、布団を握る手の力を強めた。

   ○

 子どもの頃は何をするのも二人一緒だった。
 そばに憂がいてくれたから何でも楽しむことができたのだ。
 父の海外出張がきっかけで一年のほとんどを憂と二人で過ごすようになってから、少しずつ「二人で何かをする」ということが減っていったような気がする。母から家事全般を教わっていた憂が一手に家事を引き受けることとなり、自分はというと、そんな憂に甘えてばかりいるという、今にして思えば恥ずかしい生活を送っていた。しかしそんな自分の姿にすら、これまでは気づくこともなかったのだ。

「……はあ」
 目蓋越しに外が明るくなっているのを悟る。薄く目を開いた途端、流れ込んできた朝日に視界を真っ白に染められた。気だるさの残る身体を持ち上げて目覚まし時計を確認する。
 少し早い目覚め。こんなこと、普段あまりないのになあ。そもそもしっかり眠れた記憶がないんだけど、なんかもうよく解らないというか、どうでもいい。考えがはっきりしない。
 控えめなノックの音が室内に響いたのはそのときだった。
「あ……」
 顔だけを覗かせた憂が、こちらを見た途端気まずそうな声を漏らした。たぶん自分も同じく気まずげな顔をしていたと思う。
「お、おはようお姉ちゃん。……起きてたんだ」
「……うん」
 かける言葉が見当たらず、視線を逸らして頷く。一時完全な沈黙が部屋を支配した。何か言ったほうがいいのは理解しているのだが、喉に息が引っかかって思うように声が出せない。
 昨日のことを憂はどう思っているのだろう。結構きつい口調で色々ぶつけちゃったから当然怒ってる……よね。どうしよう、謝らないと。
 そうだ、謝らないと。
 意を決して唯は顔を上げる。憂が目を背けたのはそれとほぼ同時の出来事だった。
「えっと、朝ご飯できてるからっ。二度寝は駄目だよ」
 一息でそれだけ言い残すと、憂は早々に扉を閉めて部屋を出ていってしまった。階段を駆け下りる足音に唯は前を向いたまま硬直する。人の気配が薄くなった部屋が容赦なく現実を突きつけてくる。
 ……ええと。これってもしかして、避けられた?


 無言の朝食は、それはもういたたまれないなんてものではなかった。
 美味しいはずの苺ジャムも全然美味しくなくて、ただ甘いだけの代物で、それより何より目の前の憂の様子が気になって味なんて確認している余裕がなかった。お互い食事というよりは作業に近い感覚で食べ進めているのが解る。
 上目遣いで憂の顔を窺いながら、いつ謝ろうか、どう謝るべきかをずっと考えていた。ところが一向にいい謝り方が浮かんでこない。これが喧嘩らしい喧嘩ならまだよかったのだ。ただ頭を下げて「ごめん」と言えばいいだけなのだから。
 でも、今そうしたところで、きっとまた同じことで悩むことになるのは解りきっていることだった。単に謝っても状況は何も変わらない。苛々が溜まって、再び憂に八つ当たりしてしまうのは目に見えている。それだけは何としてでも阻止したかった。でも今みたいな空気を続けていくのもそれはそれで嫌だし……。
 思考がなかなか落ち着かない中、一方の憂はいつもより数倍早い速度でトーストを消化していく。唯が半分も食べきらないうちに「ごちそうさまでした」と手を合わせると、
「お姉ちゃん、今日私日直だから先に出るね。お弁当、そこに置いてあるから」
 席を立ってそそくさと登校の準備を始めてしまう。これにはさすがの唯もトーストを咥えたままぽかんとした表情を浮かべてしまった。妙に慌ただしい足取りで食器を片づけ、鞄を引っ掴むと、憂は抑揚のない声音でいってきますと口にする。

 玄関の扉の閉まる音が、ひときわ大きく鼓膜を震わせた。

 まるで空気が凍りついてしまったかのように、しんと静まるリビング。せわしなく鼓動する自分の心拍音だけが耳許に張りついている。冷めたトーストが苺ジャムの水分を吸ってほのかに湿り気を帯びようとしていた。
「憂……」
 魂が抜けたような声で名前を呼ぶ。昨夜覚えた罪悪感が、その瞬間、身を裂くほどの激しい後悔に姿を変えた。
 状況は、思った以上に悪くなっているかもしれない。
 
 

   ○



 いつもにっこり、朗らかな笑顔を浮かべて、心に温もりを与えてくれる人。
 天真爛漫で、マイペースで、でも本当はかっこよくて、何より優しさに溢れていて。自分にはないものを沢山持っていて、それらを教わるたびにずっと何かを返したいと思っていた。本気の夢だったのだ。もらうばかりではなく、自分の中の何かを彼女にも与えたいと願った。全てはあのホワイトクリスマスから始まった、大切な想い。
 だけど……。

『どうして、何もさせてくれないの? わたしだって頑張れば憂のこと手伝ってあげられる。なのに』

 もしかしたら生まれてはじめてかもしれない、唯からの厳しい詰問の言葉。衝撃だった。こちらが何を言っても唯は振り向いてくれなくて、真っ暗な階段を見つめながら、ただただ投げかけられた言葉を胸中で反芻するしかなかった。
 別に何もさせたくないというわけではなくて、唯は一月に受験を控えているから、家事なんかで時間を取らせるわけにはいかないと思っただけなのだ。それでも唯は「何もさせてくれない」と言って腕を振り払った。なぜ、という気持ちが渦巻いていた。普段から家事は全て自分がやっているのに、なぜ今になって手伝いたいなんて言い出したのだろうと。一晩の間ほとんど眠らずに考えてみたが理由は解らずじまいだった。
 負担だったのだろうか。与えられるものを探してやっと見つけた今の安定した関係が、唯には辛くて堪らなかったのか。解らない。どうしたらいいか解らない。このまま仲直りできなければ、もう永遠に唯の顔を見つめられないかもしれない。そばにいることができなくなるかもしれない。今朝なんてまともに会話することすらできなかった。こんな日々がこれからもずっと続いていくのだろうか。
 気づいたときには涙がこぼれていた。
 いや……。そんなの、絶対にいや。
 涙を拭いながら、憂は重い足取りで学校への道を歩く。一人きりの通学路は秋の朝とは思えない鋭い冷気を漂わせていた。
 
 
 昇降口で靴を履き替えていると後ろから声をかけられた。
「おはよう、憂」
「梓ちゃん……?」
 声のしたほうに視線を向ける。黒のツインテールを揺らしつつこちらに駆けてくる梓の姿が目に入った。外靴を脱ぐ梓に、憂は驚き混じりで訊ねる。
「おはよう。来るの早いね」
「うん。私、今日日直なんだ」
 ……本当の日直は梓だったのか。咄嗟についたものとはいえ、あまりの嘘の拙さに自分自身で苦笑してしまう。
「憂こそどうしたの? 唯センパイは?」
「うん、ちょっと用事。私だけ先に来たの。お姉ちゃんはまだ家にいると思うよ」
 曖昧に答えて一足先に下駄箱を閉じる。ふうんと相づちを打つと梓はわずかに眉を寄せた。梓が上履きを履くのを待ってから二人一緒に教室を目指す。
 人の少ない校内は澄んだ空気に支配されていて、どこか、普段過ごしている場所とは異なった場所にいるような錯覚に囚われた。生徒はおろか教師とも滅多にすれ違わない。足音がよく響く廊下は隣に梓がいるという感覚を強調させた。朝日の反射で白みがかる視界に、廊下の奥がぼやけて映る。

 足を前に動かしながら、頭は全く別のことを考えていた。
 唯を、置いてきてしまった。
 今さらながらにその事実に後悔を覚えている。何もないときはいつも一緒に登校するようにしていたのに、気まずいからといって一方的に家を出るようなことをしてしまった。きっと日直という嘘もばれているに違いない。みんなは知らないかもしれないけど、こういうときの唯の勘は意外と鋭いのだ。

「憂、どこ行くの」
 呼び止めるような梓の声に意識を引き戻された。
 慌てて振り返ると、梓が教室の扉を指差しながら困ったように佇んでいた。
「教室ここだよ」
「あ、うん」
 どうやらぼうっとしていたらしい。踵を返しながら梓に「ごめんね」と謝る。釈然としないような面持ちで、それでも梓はううんと首を横に振った。どちらからともなく扉に手をかけて教室の中に足を踏み入れる。
 教室にはまだ誰の姿も見当たらなかった。自分の席に鞄を置いてから憂は教室の窓を全て開け放った。こもり気味だった室内の空気にひんやりとした冷たさが加わっていく。
 校門をくぐる生徒たちを、窓辺に肘を突きながら薄い意識で見下ろしてみた。ぱっと見ただけでも青色のリボンの数が目立つ気がした。確か、三年生は朝早く学校に来て自習に取り組んでるって純ちゃんが話してたっけ。日直で早く来たときはジャズ研の先輩もよく見かけるのだという。そういえば軽音部の人たちはどうなのだろう。放課後に部室で受験勉強をしているのは知っているけど。
「あ……」
 ふと唯に似た生徒を発見して憂は背筋を伸ばした。しかし見間違いだったことが解るとそっと元の気の抜けた体勢に戻っていく。ギターを背負っていない。それに、リボンの色も違っていた。
 生徒たちの集団から青空のほうに目を移し、深い溜め息をつく。
 何やってるんだろう、私。
 秋晴れの空が何も言わずにこちらを眺めている。何も言わないだけで、もしかしたら自分のことをせせら笑っているのかもしれない。
 どうしてこんなことになってしまったのか。気分は一向に晴れることなく、むしろ漂う雲はどんどんと濃くなっていく。そもそものすれ違いはどこだったのかも今となっては定かではない。
「憂」
 梓の声に首だけを回して反応する。
「何かあった? 今日ちょっとおかしいけど」
「……おかしい?」
「うん。教室の前通り過ぎちゃうし、今も黄昏れてるように見えたし……あ、もしかして唯センパイが何か」
「違うの」
 遮るように口を挟む。その声が自分でもびっくりするくらい真剣だったので、思わず「あ、えっと」とその後を取り繕ってしまった。梓が目を丸くしている。
「何でもないよ。ただちょっと考え事してただけだから。お姉ちゃんは関係ないの。お姉ちゃんは何も、悪くない……」
 こみ上げてくる感情に喉が詰まる。
 そう、唯は悪くない。悪いのは全部自分だった。唯の気持ちを顧みず、ただ自分のことだけを考えてばかりいた。唯が怒るのも無理はない。そうだ、悪いのは全部自分のほうなんだ。だから謝らないと……とにかく、ごめんなさいと言わないと。このままずっと目も合わせられないなんて辛すぎる。生きていけない。そんなの絶対に生きていけるわけがない。
 私とお姉ちゃん。今までの関係は決して壊しちゃいけない関係だったんだ。だから、直さないと。私が折れれば全て解決するんだ。それを、一瞬でも抗ってしまったせいで――。
「憂! 憂ってば!」
 肩を揺さぶられて我に返った。心配そうな梓の顔が目の前に大きく広がっている。
「あ……ごめん梓ちゃん、私、また」
「やっぱり今日の憂おかしいよ! 唯センパイと何かあったの? あったんでしょ? さっきからずっと考え込んでる。呼んでもすぐに返事ないし、顔暗いし!」
 想像以上に梓がまくし立てるので、憂はすっかり気圧されてしまった。肩を掴んだまま梓が疲れたように顔を伏せる。
「今日の憂は、心配だよ……」
「梓ちゃん……」
 絞り出すような梓の一言にも、憂はただごめんねと呟くことしかできなかった。
 やがて数人のクラスメートが全く別物の空気を纏って教室に入ってくる。HR開始のチャイムでさえどこか一枚薄い膜を隔てたような閉塞感の中にあった。喧騒が遠い。時折梓の気遣うような視線を肌に感じたが、どう反応していいか解らず最後まで気づかないふりを続けるしかなかった。
 精神は最悪の状態を迎えていた。もはや何を考えるにも胸の痛みが伴っていた。
 私は一体どうしたらいいんだろう。ねえ、お姉ちゃん……。
 
   ○
 
「はあ……」
 教室に着くなり溜め息が漏れる。前の席の和が訝しげな顔でこちらを振り向いた。
「どうしたのよ唯。いきなり溜め息なんて」
「のーどーかーちゃぁーん……」
 我慢できずに和の首に腕を回す。諦めたような態度で特に抵抗することもなく和は唯を受け止めた。周りのクラスメートがなにやらクスクス笑っていたが構っている余裕はない。
「わたしね、わたしね、やっちゃった……」
「やっちゃったって、何を?」
 うんと小さく頷いて、非常に言葉にしづらい事実を口にする。
「……憂と喧嘩した」
 えええっ、と和の喉から、ついでに言うと近くの軽音部メンバーの喉からも揃って驚愕の声が発せられた。
 四方に散らばっていたいつもの四人がものすごい速さで机の前に集まってくる。
「おい、憂ちゃんと喧嘩ってどういうことだよ!」
「唯ちゃんと憂ちゃんは喧嘩なんてしないと思ってた……」
「唯、お前が悪いんだろ。じゃないと喧嘩なんて起きるわけがない。相手はあの憂ちゃんだぞ!」
 次々と浴びせられる各方面からの反応。みんな明らかに憂の味方のようだったが、今回ばかりは反論する気力もなかった。縮こまって周りからの罵倒に耐えていると和がすかさず割って入ってきた。
「ち、ちょっと待って。まずは何があったのか話を聞きましょう。唯、喧嘩の理由、話してくれる?」
 和から身を離し、机に視線を落としてこれまでのことを回想する。周囲の眼差しが集中する中、変に緊張しながら昨夜起こったことを説明しようとして、
「……ごめん、なんか、うまく言葉にできないや」
「たはー! 何だそりゃー!」
 律が大袈裟に身を仰け反らせる。澪たちも拍子抜けしたように肩を落とした。
 和だけがなおも気遣うような目でこちらを覗き込んできたが、説明する意思がないと悟ると、一つ息を吸って唇を結んでみせた。
「そう、なら仕方ないわね」
「いいのか、和? 理由訊かなくて」
「ええ。その代わり」
 鼻先に和の人差し指が突きつけられる。
「相談させてもらえない以上、仲直りはあなたたちだけでするのよ」
「ええ〜……」
 厳しい口調でそう告げられて唯はつい気後れしてしまった。しかし和の口の端に浮かぶかすかな笑みを見て、小さいながらもうんと頷きを返す。たったそれだけで、和はもう何も言うことはないというふうに目蓋を閉じた。他の三人はただ首を傾げてお互い戸惑ったように目配せするだけだった。
 
 ああ、そっか。
 和ちゃん、解ってくれたんだ。
 ごめんね。それと、ありがとう。
 昨日あったことを伝えることはできるんだ。でも、今回のことはやっぱり自分で考えなくちゃ駄目だと思ったの。自分の中で答えを出したいって思ったの。そうしたら急に言葉が出なくなっちゃった。
 今までだったら和ちゃんに頼っていた。みんなの優しさに頼っていた。だから今回は自分一人だけで考えるね。和ちゃんやみんなの心遣いを無駄にしないためにも。
「みんな。今日、わたし――」

 絶対に見つけてみせるんだ。「逃げ」じゃない答えを。わたしと憂がこれからどうやって一緒にいるべきなのか、その答えを、他でもないわたしたち自身で掴んでみせる。
 覚悟は決めた。もう迷わない。みんなの顔を見回して、今度こそ唯は力強く首を縦に振ってみせた。
 
 

   ○



 放課後の騒がしさを背に、階段を一歩また一歩と上っていく。
 部室の前まで来たところで梓は眼前の扉をきつく睨みつけた。ドアノブを掴んでは離し、掴んでは離しを繰り返したのち、ごくりと息を呑んでひと思いに扉を押し開ける。
「唯センパイ!」
 開口一番に唯の名を呼ぶ。……が、その場にいたのは唯を除く他の三人だけだった。呆然と突っ立っていると、椅子に身を乗り出した律が教えてくれる。
「唯なら帰ったぞ」
「帰ったって……用事か何かですか?」
 問いに答える人はいない。澪も律も紬も口許をにやつかせて「さあ?」と両手を上げるだけだった。どうにも納得いかない態度だったが見たところ本当に唯は不在らしい。なあんだ、と眉を下ろして自分の席に向かうことにする。
 用意したティーカップにお茶を注ぎながら、紬が興味津々といった様子で訊いてきた。
「ずいぶん大きな声だったけど、唯ちゃんに何か用事でもあったの?」
「あー……」
 どう応じたものか。憂のことで色々問い詰めようと思っていたのだが、本人がいない前でそのことを明かすつもりにはなれなかった。そもそもあの二人に何かあったと決まったわけでもないし。どちらかというと余計なお世話というやつで。
「もしかして憂ちゃんのことか?」
 斜め前に座る澪の台詞に、梓はカップを取り落としそうになった。
「ど、どどどうしてわかるんですかっ!?」
 あまりにうろたえてしまってまともに喋ることができない。三人は顔を見合わせたあと、まるで堪えきれないとでもいうようにぷっと盛大に吹き出した。
 
   ○
 
『みんな。今日、わたし先に帰るね』
 朝の時間にそう告げて、放課後になると同時に教室を飛び出した。みんな思い思いの表情で手を振ってくれた。
 人混みで沸く廊下を抜け、階段を駆け下り、憂のいる二年生の教室目指して走る。勢いがつきすぎて躓きそうになったが脚に力を入れて踏ん張った。背負ったギー太が派手に揺れてバランスを崩そうとしてくる。
 教室の前まで辿り着くとすぐに憂を探した。ところが、憂はおろか梓の姿すらどこにも見当たらない。教室の隅で掃除をしている純を捕まえて声を張り上げる。
「う、憂はっ!」
「え、えっと、確かスーパーで特売があるからって、急いで帰ったような気が……」
 息を整えつつ状況を整理する。どうやら入れ違いになってしまったようだ。
 スーパーはいつも行っているスーパーだろうか。今から急げばまだその辺で会えるかもしれない。純にありがとうと言い残すと唯は再び廊下を突っ走る。呼吸はすでに荒くなってきている。
 行き交う生徒たちに絶えず視線を配っていく。見慣れた姿とは今のところ遭遇していない。お互い気づかずにすれ違ったりしていたら洒落にならないが、大丈夫、そう簡単に見逃すわけがなかった。どんな状況下にあっても憂のことだけは見失わない自信がある。

 横を向けば、いつもそばにいてくれた。
 晴れの日も雨の日も、楽しいときも辛いときも、隣で笑ってくれていた。
 それがどんなに大切なことかつい最近やっと気づいて、でも、自分は、ただ気づいただけで終わってしまっていた。
 もしかしたら憂はそれでよかったのかもしれない。これまでのような関係が永遠に続けばいいと思っていたのかもしれない。でもわたしは違うんだ。わたしは、憂の力になりたい。わたしからも何かをあげたいんだ。もらってばかりの日々を変えたいんだ!

「憂っ!!」

 昇降口に佇む少女にありったけの声をぶつける。
 少女のポニーテールがひときわ縦に大きく揺れた。
 周囲のざわめきは遥か彼方に消え去り、視界はただ少女だけを大きく捉えている。乱れた呼吸がわずらわしい。もう一度名前を叫ぼうとしたが息が詰まって失敗した。それなら、と唯は残った力を振り絞って少女の元に走り寄る。
 少女はこちらを振り向こうとしない。ただ間近に迫ったことで、身体が小刻みに震えているのが解った。
 その小さな背中を包み込むように、唯は後ろから少女を抱きしめる。
「……っ」
 密着した肩越しに息を呑む様子が伝わってくる。溢れ出る愛しさに任せて唯は回した腕に力を入れた。もう離さない……! そんな決意をこめて、強く強く抱擁する。周りの目なんか微塵も気にならなかった。腕の中にいる少女しか見えていないのだから。
「――やっぱり」
 少女の手の温もりが両腕に覆い被さる感覚があった。掠れ気味な声で少女が言う。
「やっぱり、あったかいね。お姉ちゃんは」
「憂だってあったかいよ」
 少女の首筋に鼻先を擦りつける。くすぐったそうに身じろぎしながら憂は観念したようにこちらを向いた。憂の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 よかった、と心の中で安堵する。自分たちの絆はまだ途切れていなかった。そう悟った瞬間、唯の目にも涙がこみ上げてきて、しばらくそのままの体勢で二人して声を押し殺しつつ泣いた。
 
 
 買い物袋を一つずつ持ってスーパーを後にする。
 秋の匂いを含んだ風が髪をなびかせた。目の前を横切ったとんぼが高度を上げて鮮やかな夕焼けの中に溶けていく。夕飯の献立をカレーにするかハンバーグにするかでささやかな言い争いを繰り広げている親子連れがいた。その微笑ましい光景を横目に見ながら、唯たちはスーパーの前にある交差点を渡っていく。
 学校を出てからも憂との間に会話らしい会話はほとんどなかった。買い物の最中も憂の後ろでカートを押すだけだったし、せいぜい「今夜何食べたい?」「何でもいいよ」というやり取りくらいだっただろうか。気まずいというより変に緊張して何を話せばいいか解らなかったのだ。憂と話をするために急いで教室を出たというのに、正直これでは全く意味がないように思える。
 二人並んで家までの道のりを歩く。無言であることに苦痛は感じなかったが、焦りは徐々に増大していった。このまま家に帰ってしまっていいのか。恐らく帰ったら、憂は昨日のことなんて何事もなかったかのように振る舞うだろう。無意識にそんな予感はしていた。憂は今の関係が変わることを恐れているに違いないと。だから憂は喋らない。自分の心を明かさない。これが今までの自分たちだったのだ。言葉を交わさずともお互いの気持ちを汲むことができる。喧嘩も衝突もない安定した関係。自分は憂に甘えていればよかったし、憂もきっと自分の意思で進んで家事をやってくれていた。傍からすれば壊す必要性が皆無な関係を自分たちは築いてきたのだ。
 だけど。それでも。

「憂」

 いつしか少しだけ前を行っていた憂に声をかける。憂のほうも薄々勘づいていたのか、すぐに足を止めてこちらに顔を向けた。
「話したいことがあるの。久しぶりにあの公園……行きたい」
「……うん」
 頷いたきり、憂は明後日の方角に目を逸らしてしまう。今度は自分が少し前に出て公園へと歩き出した。途中で憂が不安そうに手を伸ばしてきたので、すかさずその手を自分の元に引き寄せる。
 昔、和や隣のおばあちゃんと一緒に飽きるほど遊び倒した公園は、遊具の種類が多少変わってはいたが、奇跡的なことにほとんどその外観を留めていた。憂を連れて毎日のように遊んだなあと唯はにわかに懐かしい気分になる。小さかった頃の思い出が脳内で綺麗な花を咲かせていた。自分たち姉妹がまだ無邪気でいられたあの頃の記憶は、今はもう目を閉じないと思い出せないほど遠くにいってしまっている。
 ベンチが一つ空いているのを見つけ、唯は憂の手を引いた。「行こう?」と問いかけると憂は首肯して懸命に後ろをついてくる。昔はこんなふうに憂の手を引っ張って歩いていた。この公園は色々なことを思い出させると同時に、あの頃に戻ったかのような錯覚をも呼び起こさせた。
「ふうー……」
 ベンチに腰を落ち着けた瞬間、極度の緊張からか、肺から大きな吐息が漏れた。一方の憂は両手を膝の位置に揃えて黙って俯くばかりで、こちらはまた別の緊張に囚われているのかなと勝手に想像する。今からどんな話をしようとしているのか、憂もきっと察している。
 もはや話すことなど何一つとして考えていなかった。ただ話さないといけないと思っただけで、自分の気持ちをうまく言葉にできる自信すらなかった。何より憂が強い拒絶を示すかもしれない。それが一番の恐怖だった。嫌われたらどうしよう。憂が離れていったらどうしよう。そうなったら絶対に生きていけない。この先自分たちがどう変わっていったとしても、憂が隣にいない日々なんて考えられなかった。でも今から自分がしようとしていることは、そういう事態を引き起こすはめになるかもしれなくて……。
 この期に及んで、一度は振り絞った勇気が再びしおれようとしているのが解った。自分だって本当は怖い。変わらないといけないと思いつつも、どこかでやっぱり今までの生活に戻りたいとも考えていた。だけども気づいてしまった。このままでは駄目だと感じてしまった。もうこの気持ちに後戻りはきかない。
 誰よりも今、憂のことが大好きだから。
 大切にしたいと思ったから。
 頼るばかりじゃなくて、頼られたいから。
 手を引かれるばかりじゃなくて、一緒に手を取り合って生きていきたいと思ったから。
「憂、わたしね――」
 大きく深呼吸して唯は最初の一言を切り出す。
 
 秋の夕暮れに群青色が混ざっていく。夜の訪れを感じさせる空気が立ちこめる中、一つの関係が今まさに終わりを迎えようとしていた。

   ○

 はあー、はあー。
 バルコニーに立ちながら、唯はかじかんだ指に息を吐きかけた。
 指先が冷たい。冷たいなんてものじゃない。もはや感覚がない。
 ああ、秋ってホントどうしてこんなに短いんだろう。早くも冬に近づきつつある空を見上げながら唇を尖らせた。夏はあんなに暑かった上にずいぶんと長いこと居座っていたというのに。もういっそのこと一年が春と秋だけになればいいんだ。そうすれば暑さに参ることも寒さに凍えることもない。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
 リビングから憂が覗き込んでくる。洗濯籠に手を突っ込みながら唯は大丈夫だよと余裕の笑みを浮かべた。濡れたシーツが穏やかに風にそよいでいる。
「もし大変そうだったら言ってね。私も手伝うから」
 そう告げると憂はリビングの奥に引っ込んだ。掃除の最中だったのを、わざわざ中断してまで様子を見に来たのだろうか。どうやら一人前と認められるにはまだまだほど遠いようである。

 あの日、自分は憂にありのままの気持ちを伝えた。色々伝えたいことがありすぎて綺麗にまとめられたかは覚えていない。自分の想いを口にするので精一杯だった。
 憂はずっと暗い面持ちで話を聞いていた。自分の発する一言一言が憂の心に傷をつけていることは十分すぎるほどに理解していた。それでも次々と溢れ出る言葉を止めることはできなくて。
 全てを話し終え、沈黙が場を支配した後、憂はわずかに顔を上げて弱々しく微笑んだ。しかしその笑顔はすぐに泣き顔へと変わっていった。自分は泣きじゃくる憂を抱きしめて、ただひたすらごめんね、ごめんねと謝ることしかできなかった。
 終わってしまったのだ。今日まで続いてきた「当たり前の日々」は、夜がやって来ると共にその幕を閉じたのだった。暗闇の中に響く憂の嗚咽は、今もしっかりとこの両耳に刻まれている。
 
「終わったー!」
 万歳のポーズをして唯は床に倒れ込む。「お疲れ様、お姉ちゃん」キッチンから出てきた憂が、テーブルの上に入れたてのお茶を置いてくれる。
 紬の持ってきてくれる高級なお茶とは違うけれど、憂の愛情がたっぷりこもったとても美味しいお茶だ。上半身を起こして唯は早速お茶に口をつける。長いこと外で洗濯物と格闘していたからだいぶ身体が冷えてしまっていた。こういうときはさらにお茶が美味しくなるから、頑張った甲斐があるというものだ。
 依然として家事の多くは憂が担っているが、少しずつ自分にも手伝わせてもらえることが増えてきている。最初こそ「やっぱり私がやるよ」と言い張っていた憂も、次第に肩の力を抜きはじめて、気軽に用事を頼んでくれるようになった。と言ってもおよそ用事とも呼べないことばかりだが。未だに食器類には触らせてくれないし、たびたびこちらの様子を確認しに来るしで、まあでもその辺はおいおい時間をかけてやっていくしかないのかなとも思っている。
 憂には謝っても謝りきれない。半ば無理やり自分たちの関係を変えさせてしまったのだから。一回だけ本当にこれでよかったのか訊ねてみたことがあったが、憂は晴れやかな表情で「うん」と短く答えるだけだった。でも自分はあの夜の憂の涙を覚えている。憂が流した涙の意味を自分は一生忘れたりしない。
 
 時刻は午後三時を回り、リビングは気だるいムードに呑まれている。休日の昼間は眠たくなるものだと相場が決まっているが、今日は頑張って憂の手伝いをすると心に決めたのだった。もちろんその後には受験勉強も控えている。一月の受験までもうあまり時間がない。だから夜の家事は全て憂にやってもらうことにしている。「夜はちゃんと勉強すること」。憂が最後まで譲らなかった条件がそれだった。
 目の前ではエプロン姿の憂がお茶をすすっている。こうしてお互い顔を合わせながら過ごせるというのが大きな幸せなんだと今なら実感できる。
 言い知れない妙な欲望が胸の底で首をもたげた。憂がカップを置くのを見計らって唯はテーブルの下に潜り込む。
「お、お姉ちゃん?」
「えへへー、ひざまくらです!」
 憂の膝に頭を乗せて、自信満々にピースサイン。
 憂はきょとんとした顔をしていたが、すぐに頬を染めて嬉しそうにはにかんでみせた。その表情を目にした途端、自分の頬にも急激に火が灯るのを唯は感じ取る。自分から寝転んでおいて身動きが取れないほど緊張していくのが解った。あ、あれ、なんでこんなことしちゃったんだろう……。
 沸き起こる恥ずかしさをごまかすように唯は口を開いた。
「ね、ねえ。憂はさ、将来結婚したりするの?」
「え? 結婚?」
 明らかに謎の方面から飛んできた話題に今度こそ憂が首を傾げる。自分でもなぜこんな話題を取り上げたのか本気で理解不能だった。むしろ余計に気恥ずかしくなってくるというか……。ああ、しかし、一度開いた口は止まらない。
「うん、だって、憂が結婚しちゃったらわたし一人になっちゃうし、憂とも離ればなれになっちゃうし……」
「お姉ちゃんはしないの、結婚?」
「うーん、わたしはいいかなあ。それより憂とずっと一緒にいたいもん」
 あまりに自然に出てきた台詞に思わず「あ」と声がこぼれる。憂は狐につままれたような表情で、口をぽかんと開けていた。
「すごい、私も同じこと考えてた。私もお姉ちゃんとずっと一緒に、って」
「……ホントに?」
 こくこくと憂が首を縦に振る。わずかに見えるポニーテールが可憐に揺れていた。
 視界が、これまでにないほど大きく拓けていく。その中心にあるのはもちろん、真っ赤に火照った憂の顔。その顔と同じくらい赤く染まった自分の顔が、両方の瞳に映り込んでいる。
「約束、だよ」
 無意識に真剣な声で唯は囁きかける。
「ずっと一緒だからね。どこにも行かないでね。本当にずっとだよ? 大人になっても、おばあちゃんになってもっ」
「お姉ちゃん、心配しすぎ」
 くすりと笑いながら憂が髪を撫でてくる。指の触れた箇所に強い疼きが走るのを感じながら唯は身をよじらせた。くすぐったさとは別のむず痒い感覚がほのかな眠気と相まって心地いい。
「私は、ずっとお姉ちゃんのそばにいるよ。何があっても、ずっと。約束する」
 一語一語を噛み締めるように憂は言葉を紡ぎ出す。
 あまりに幸せな気持ちがこみ上げてきて時間が止まってしまったかと思った。かつてないほどの喜びと安らぎに包まれながら、唯はそっと目を閉じる。

 まどろみの中に落ちる最中も、憂の温もりはいつまでも、いつまでもそばにあった。
 
 
 
(了)

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