ゆりかご。

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じゃあねを言う前に。

作品名:けいおん!(けいおん!!)

 お姉ちゃんが桜高を卒業した。
 
 夜になって帰ってきたお姉ちゃんはなんだかすごく満足そうな顔をしていた。おかえりと言うと、お姉ちゃんは少し照れたような様子でただいまと返してくれた。
 卒業祝いということで家族揃っての団欒を楽しんだ後、お姉ちゃんは一人ベランダに上がって夜空を眺めていた。後片づけを終えて憂も一緒に空を見上げていると、お姉ちゃんの口からぽつりと短い言葉がこぼれた。
「卒業……したんだね」
 お姉ちゃんの目には群青色の空間が広がっていた。でもその瞳にはそれ以外のものが映り込んでいることも憂にはすぐ解った。お姉ちゃんがこの三年間で目にしてきたものや、周りの人たちと築いてきた沢山の思い出。それらが星の代わりになって満天の星空を演出しているに違いなかった。
 リビングからお母さんたちの呼ぶ声が聞こえる。どうやら二人とももう眠ってしまうらしい。昨日の夕方に帰ってきたばかりで疲れているのだろう。お姉ちゃんと共におやすみと手を振って、視線をまた空に戻す。
「あーあ。明日からもう高校生じゃないのかあー」
 がっかりしたように肩を落としながら、お姉ちゃんが横目を向けてきた。
「憂はいいよね。まだあと一年あるんだし」
「そ、そうかな」
「そうだよお。む。若者よー! 青春を謳歌したまえ!」
 静まり返った住宅街にお姉ちゃんの激励が響く。笑ってやり過ごしながら憂は心の隅で鈍い痛みを感じていた。お姉ちゃんから顔を逸らして沈んだ気分を悟られないようにする。
 青春を謳歌、かあ。
 その青春を一緒に謳歌したい人が、今日高校を卒業しちゃったんだけどな……。
「憂、どうしたの?」
 唐突に顔を覗き込まれて我に返る。訝しげに眉を寄せたお姉ちゃんが至近距離でこちらを見つめている。
 思わず後ずさって「な、なんでもないよっ」と大袈裟な声を上げてしまった。お姉ちゃんはしばらくの間怪しげなものを見るような目でこちらを見ていたが、やがて元の表情を取り戻すと、口の端にわずかな笑みを宿した。
「何でもないならいいけど……あ、そういえば憂は進路どうするの? もう考えてる?」
「え、っと……」
 言葉に詰まる。いつか訊かれるだろうとは思っていたが、まさかこのタイミングで来るとは想像もしていなかった。いや、進路自体は決まっている。この前決まった。でも今それを明かしてしまったら間違いなく変に思われてしまう。
「ま、まだ決めてない……かな?」
「そっかあ。憂は頭いいんだから、絶対進学したほうがいいと思うよ。憂だったらわたしの行く大学よりもっといい所狙えるかも!」
 ぐっ、と自らの息を呑む音が聞こえた。もはや本当に苦笑いするしかこの場を乗り越える術が思いつかなかった。お姉ちゃんに悪気がないのはもちろん理解している。口にできない秘密をいくつも持っている自分が悪いのだ。
 お姉ちゃんがベランダの端っこに身を乗り出す。春の夜風を全身で浴びようとするかのようにめいっぱい両手を広げてみせている。
 その姿はまるで一羽の立派な鳥のようだった。今まさにベランダの縁を蹴って、夜空に飛び立っていってもおかしくなさそうで。
「だめっ……!」
 無意識にお姉ちゃんの背中に手を伸ばす。その瞬間、ひときわ強い風が吹いて、鳥と重なっていたお姉ちゃんの後ろ姿が元に戻った。同時に胸を支配していた不安も遠いどこかに流されてしまって、中途半端に前屈みになった憂と、きょとんとした面持ちのお姉ちゃんだけが残される。
「……落ちたりしないよ?」
 数秒固まってから、言われた言葉の意味を察した。どうやら色々と勘違いしてくれたみたいだった。それなら、と体勢を直していかにもそれらしく。
「もう。びっくりしちゃった。危ないよお姉ちゃん」
「えへへ」
 頭を掻きつつお姉ちゃんがこちらに戻ってくる。そろそろ寝よっかという申し出にうんと頷いて、二人一緒にベランダを後にした。そんな何でもないやり取りに幸福感を覚えつつ、胸の中で自らに言い聞かせる。

 そうだ、何も心配することなんてなかった。確かにお姉ちゃんは高校を卒業しちゃったけど、毎日こうして顔を合わせられるんだし、それだけでもよしとしなくちゃ。成長した雛みたいにある日突然巣立っていくようなことはない。これからも傍に、ずっと傍にいるんだから。
 そう思っていたのに――。
 ある日、お姉ちゃんが口にした台詞は、そんな希望を容赦なく打ち砕いた。

 わたし、一人暮らししようと思うんだ。

   ○

 幾度も胸中で反芻する。
 何も難しいことじゃない、と。
 N女子大は家から遠すぎるから一人暮らししたほうがいいという、ただそれだけのことだ。解っている。言われなくたってその辺の事情は頭に入っている。
 それでも、その話をお姉ちゃんから直々に聞かされたとき、憂はテーブルを拭く手を止めてただただ耳を疑うしかなかった。思考が聞き返すという部分にまで行き着いていない。驚きの声を上げることすらできず、隣のお姉ちゃんに恐る恐る視線を向ける。
 いつもはソファで寝転んでいるはずのお姉ちゃんが、そのときばかりは身を正して真面目な表情でこちらを見据えていた。息を止めてその真っ直ぐな眼差しを受け止める。聞き流すような会話じゃないと悟った憂は、夕食の後片づけを諦めてその場に座ることにした。座ろうとしたときに折り曲げた脚が小刻みに震えていた。
 すでに頭はぐちゃぐちゃになっている。予期しない話の内容に早くも心が閉じこもろうとしている。
「憂……どうしたの? 大丈夫?」
 投げかけられた問いにも首を縦に振ることしかできない。大丈夫じゃないのは誰が見ても明らかだったが、お姉ちゃんの話を断ち切るようなことだけはしたくなかった。こんなにも真剣な顔をされてしまったら、もはや向き合うより他に道はなかった。
 お互いしばらく何も言い出せないまま横切る沈黙に場を委ねる。未だに状況が把握できていない。とりあえずお姉ちゃんは言った。一人暮らししようと思っていると。お姉ちゃんと一人暮らし……本来なら実感の湧かない単語の組み合わせだったが、今はそれがどういうことなのか、少しずつ頭で理解できるようになってきていた。
 いなくなるということだ、この家から。
 一緒にいられなくなる。傍から離れていってしまう。毎日顔を合わせられなくなる。
「それでね、憂……」
 心持ち遠慮がちな声でお姉ちゃんが続きを話しはじめる。視線はとっくに下を向きながら、それでも憂は小さく相づちを打った。
「憂も知ってると思うけど、N女子って家からだとちょっと遠いんだよね。毎日早起きしないといけないし、あ、ほら、わたしって起きるの苦手だし、遅刻しちゃうかもしれないでしょ? ……でね、りっちゃんもするって言ってたんだ、一人暮らし。やっぱりみんな家からだと遠いよねって話しててさ。あっ、でもそのときのノリで決めたわけじゃないんだよ。いっぱい考えて、どうしたらいいのかなって悩んで、それで」
 お姉ちゃんの声に、確かな決意が加わった。
「わたしは、一人暮らししたほうがいいかなって思った。でもわたし一人で決められることじゃないから、憂にも相談したかったんだ。もちろんお父さんたちにもちゃんと話すけど、まずは憂の答えが聞きたい」
「……私の、答え」
 膝に置いた両拳に力が入る。絞り出そうとした言葉は喉の奥につっかえた。口を開けては閉じ、開けては閉じという動作を二、三回ほど繰り返す。
 答えなんて、そんなものは恐らく最初から決まっていた。お姉ちゃんがそうと決めたなら引き留める理由は何もなかった。お姉ちゃんの足かせになりたくなかった。何よりも今はその気持ちが一番強いから。
「そっか……」
 意を決して、せめて声だけは明るくしようと努めた。喉元に今一度力を込める。
「お姉ちゃん、一人暮らし……するんだね。うん、いいと思うよ。お金のことはたぶん心配しなくていいと思うし、お姉ちゃんももう大学生だもんね。一人暮らしくらい、当たり前のことなんだよね」
「憂……」
「でも大丈夫? これからはもう、起こしてあげられないよ。目覚まし沢山セットしておかないと。今から起きる練習もしておかないとね。それと、ほら、お料理。これからは自炊になると思うからレパートリー増やして……お掃除やお洗濯も一人でできるようになって、それから、えっと」
「憂。もういいよ、憂」
 堰を切ったように言葉が溢れてきて口が止まらない。お姉ちゃんに遮られてようやく自制が働いたが、次には抑えきれないほどの寂しさがこみ上げてきた。全身が総毛立つかのような悲しみに嗚咽が漏れそうになる。
 駄目だ、泣く……っ。
 口許を押さえ、急いでその場から立ち上がった。これ以上は普段通りでいられる自信がなかった。ごめんという言葉さえ最後まで言い切ることができないまま憂は自分の部屋に逃げ込もうとする。
「待って!」
 お姉ちゃんの呼び止める声。
 足を一歩前に踏み出したとき、後ろからお姉ちゃんに腕を掴まれた。
「……っ」
「待ってよ憂。行かないで、お願いだから……」
 無言の拒絶を示したが向こうも放す気はないようで、テーブルを挟みながら短い押し問答を繰り広げる。しかしお姉ちゃんの手が自分の腕を放すことはなかった。堪えていた涙腺もついに崩壊して憂はゆっくりとその場に崩れ落ちる。声を押し殺すこともできず、ただ悲しみに身を任せて泣きじゃくる。
 ああ、泣いてしまった。泣かないよう我慢していたのに。
 自分の弱さに不甲斐なさを覚える。それでも一度崩れた防波堤はそう簡単には直せない。悲しみの嵐はその間も容赦なく押し寄せてはとめどない涙を運んでくる。

 背中に温もりを感じたのはそのときだった。

 テーブルを迂回したお姉ちゃんに背後から抱きしめられた。その事実に思考が至るまで数秒の時間を要した。思わず後ろを振り返ろうとしたが想像以上に顔が近くにあって、中途半端な角度で首が止まってしまう。
「ごめんね……。でも、嬉しい」
 耳許で囁かれ、身体に甘い痺れが走った。
「本当は、心配だったんだ。憂に笑って送り出されたらどうしようって。確かに一人暮らしするって言い出したのはわたしだけど」
「お姉ちゃんは……」
 背中越しに伝わる体温に幸せを覚えつつ、呟く。
「お姉ちゃんは、ひどいよ……っ。いつも私より少し前を行って、私を置いていっちゃう……」
 涙は引きつつあったが胸の痛みはより一層強くなった。この温もりも、あと一体どれくらい感じていられるのだろう。
「私だって、本当は、お姉ちゃんと一緒にやりたいことがいっぱいある。でも私は妹だし、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから……絶対に隣には立てない……」
「そんなことないよ。憂はいつも隣にいて、わたしのこと支えてくれてたよ」
 違う、そういうことじゃないの、と首を横に振る。きっとこの気持ちはどうやったって正確には伝わらない。
 ずっと背中だけを見てきた。どんなに近づいても斜め後ろに立つのが精一杯だった。いつからだろう、姉妹として当たり前なそんな距離感を寂しいと思いはじめたのは。できることなら隣に立って、お互いの姿を視界に入れながら歩きたいと望んだ。同じ時間を共有したかった。お姉ちゃんが笑ったり泣いたりするその理由を、自分の目でも確かめてみたかった。でもそんなことは永遠に不可能だとも解っていたし、自分でも諦めがついていたから、あえて深く考えるようなことはしなかった。
 だけど今回ばかりは……無理だった。
 置いていかないでと、声を張り上げて叫びたかった。
 それでも実際にそうできないのはやはりお姉ちゃんのことを考えてしまうからで、自分と一緒にいることでお姉ちゃんの将来が阻害されるのなら、いっそのこと、この悲しみを塞いでしまえばいいとさえ思った。巣立ちづらくなってしまうような空気にはしたくなかったから、そのためなら、たとえ無理やりにでも笑顔を作る覚悟はあった。結果的には失敗してしまったけど本当にそんな気持ちでいたのだ。
 そうだ、今からでも遅くはない。涙を拭いてお姉ちゃんの新しい出発をお祝いしなくちゃ。
 そう自分に言い聞かせようとした瞬間だった。しばらく黙り込んでいたお姉ちゃんが、ぽつりと小さな声で言った。

「――じゃあ、捨てちゃおっか」

「え?」
 言葉の意味が理解できず再び背後に首を回す。
 目の前が薄闇で覆われ、次いで唇に柔らかな感触が伝わった。
「……、っ」
 至近距離で届く息遣いに、揺れる前髪から漂ってくる甘い匂い。何が起きたのか理解するにつれて急激な温度上昇が始まり、漏れ出た「……んっ」というお姉ちゃんの声で思考が一気に沸点を突破した。擦れた鼻先の刺激が電流となって全身に流れる。何よりも今、繋がっているこの場所が、この唇が、火傷しそうなくらいの熱を帯びていて……痛い。
 なのに、どうしようもないほどに気持ちよくて。
 覚える痛みですら甘美な味を含んでいて。
 徐々に身体が弛緩していくのを自覚する。視界がぼやけてきて、まるで湯船に浸かっているかのような気分になってくる。いよいよ本当に思考が焼き切れると思ったところで唐突に唇が離れた。到底座ってはいられなかったのでそのままお姉ちゃんに身を預ける。
 どうして、と呟こうとしたが、うまく喉が働いてくれなかった。真っ赤なお姉ちゃんの顔を見上げながら、たった今起きた出来事の現実味を確かめる。頭がぼうっとしていて、自分自身で今の状況について考えることはできそうにもない。
「これで、捨てられたかな」
「なに、を……?」
 浮ついた調子で訊き返す。お姉ちゃんの手が頬を穏やかに撫でた。
「姉妹っていう関係。これでわたし、憂のお姉ちゃん以外の存在になれた……?」
 不安げな色を瞳に宿してお姉ちゃんが見つめてくる。予期しない問いかけとそこに含まれた意味に全身が打ち震えるのが解った。それってもしかして……。
 固まる憂をよそにお姉ちゃんは緊張した面持ちで口を開く。
「憂のこと、もちろん今までだってずっと好きだったよ。でもその好きは家族としての好きなんだってずっと思ってた。思い込んでた。だけどこの前憂が風邪を引いたときにね、ちょっとだけ違う気持ちに気がついたんだ。――あー、えっと、えへへ、ごめん。やっぱり少し恥ずかしいね。それに、怖い。でもちゃんと言うから。きっと今しか伝えられないと思うから、お願い、もうちょっとだけ聞いてて」
 一つ大きく深呼吸すると、お姉ちゃんは再びこちらを真っ直ぐに見下ろした。その瞳にはもう微塵の不安も残っていないように思えた。
「わたし――憂が好き。妹としても好きだし、家族としても好きだけど、でも、それだけじゃない。憂のことが好きなの。だから……憂がわたしの隣に立てないって悩んでるなら、わたしが姉で、憂が妹っていう関係が憂を苦しめてるのなら、わたしは、お姉ちゃんじゃなくなったっていい。憂と並んで歩けるようになれれば、それでいい」
 一切の迷いもない、あたかもそんなふうに言い切られた。実際お姉ちゃんの表情には一点の曇りも見当たらなかった。
「わたしも憂の隣を歩きたいよ。わたしだけ憂の姿が見えないなんて寂しいよ。だから憂のこと、妹としてだけじゃなくて、一人の人間として好きになりたいの。あ……もうなっちゃってるんだけどね。わたし、憂のお姉ちゃん以外の存在になりたいんだ。もっとこうして憂に抱きつきたいし、今みたいに……キスだってしたい。憂が嫌じゃなかったらだけど……。あっ、そういえばさっきはいきなりキスしちゃってごめんね……? その、本当はあんなふうじゃなくて、憂の返事を聞いてからどうするか決めるつもりだったのに、憂の話聞いてたら頭真っ白になっちゃって……」
 ごめんね。嫌じゃなかった?と何度も訊ねられ、憂は苦笑気味に首を縦に振った。あの瞬間、確かに唇に痛みはあったけれど、あれは嫌だったんじゃない。むしろ嬉しすぎて、お姉ちゃんと繋がった部分が過敏になりすぎていたんだと思う。
 お姉ちゃんが一言ずつ想いを口にするたび、胸の奥でわだかまっていたものが一枚また一枚と剥がれ落ちていく実感があった。お姉ちゃんは変わろうとしていた。そしてその変わろうとする気持ちが生んだ言葉の一つ一つに、心が救われるような、力強く真摯な響きを感じた。
「大丈夫だよお姉ちゃん。私も……すごく嬉しかったから」
「本当に?」
「うん。――ごめんね。気を遣ってくれてありがとう」
 繋いだ手を静かに解いていく。ようやく力が入るようになった身体を持ち上げてお姉ちゃんのほうに向き直った。
 改めてまじまじと直視したお姉ちゃんの顔は、どこかこれまでとは違った感じに見えた。一度は収まったはずの鼓動がまたざわめき出す。今はまだ、この胸の高鳴りを止める方法を知らない。
 それなら、いっそのこと。
 これが答えだと言わんばかりに。
 お姉ちゃんの中にある不安を全て取り除きたいという一心で。
 身を乗り出すと、憂はお姉ちゃんの唇に自分の唇を押しつけた。
 二人して床に寝転がりながら、それでも口づけは止めずにお互いの味を確かめ合う。静まり返ったリビングに、言葉になりきっていない断片的な声だけが響いた。最初はされるがままだったお姉ちゃんも、いつしか首に腕を回してこちらの求めに応じてくれるようになった。
 唇を離すとお姉ちゃんが苦しげに息を吐き出す。
「ぷはっ。うい〜、いきなりなんてひどいよお……」
「おあいこだよ、お姉ちゃん。私だってさっきはびっくりしたんだから」
「それはそうだけど……んっ」
 台詞を断ち切るようにまたもや口を塞ぐ。どこかすでに正気を失っている感覚はあった。溢れ出る愛しさを制御することができない。先ほどのお姉ちゃんの台詞の意味が解った気がした。すっかり頭の中は真っ白になっていて、ただ眼前に広がる愛しい人の唇を奪いたくて仕方がなかった。
 床にくったりと広げられた手のひらに自分の指を絡ませる。半ば押し倒すような体勢に言い知れない興奮を覚えていた。やがて痺れを切らしたお姉ちゃんがぐるりと反転して、今度はこちらが床に仰向けにさせられる。お姉ちゃんの両目が妖しげな光を放っている。会話はない。代わりに口づけであらゆる想いを交換し合う。

 そんなキスの応酬を、その夜は数え切れないほど繰り返した。
 
   ○
 
「はあ……」
 ソファに座りながら気の抜けた視線を中空に投げる。
「つかれた……」
 お姉ちゃんが肩に頭を載せてくる。憂のほうも支えるほどの余力は残っておらず、お互い寄りかかって倒れないようにバランスを取るのが精一杯だった。
「さすがに一晩中はやりすぎだったね……」
 窓の外が明るい。時計はもはや怖くて見る気にもなれない。今日が日曜日だというのがせめてもの救いだろうか。もし今日が平日だったら、さすがに学校に行ける状態ではなかった。いくら何でも羽目を外しすぎた。
「キスってすごいねえ……」
 魂ごと漏れているんじゃないかと思うような調子でお姉ちゃんが言う。無言で頷き返しながら自分の唇を指でなぞってみた。酷使した跡がわずかに確認できて、我ながらすごいことをやっていたんだなあとしみじみ自覚する。
 あれから何度か小休止を挟んだものの、結局どちらかが昂ぶりを抑えられなくなって、という展開が朝まで続いた。途中からただのキスでは満足できなくなって、お姉ちゃん先導のもと「大人のキス」というのも試してみた。今残っているこの疲労感は大体それのせいなんじゃないかと思っている。
 まさに怒濤の一夜だった。一晩で色々なことが起こりすぎた。昨日までの自分たちは、振り返れば遥か遠い所にまで行ってしまっている。ただの姉妹でしかなかった自分たちにはもう二度と戻れないだろう。何となくそんな気がしていた。
 隣のお姉ちゃんがそっと手を重ねてくる。
「もう……寂しくない?」
 その手をどけて、改めて手を繋ぎ直す。指と指を交互に入れて握り合う恋人繋ぎ。
「うん。もう平気だよ、お姉ちゃん」
「もし寂しくなったらいつでも呼んでね。飛んで帰ってくるから。なるべく駅に近い所で部屋探すようにするし」
 交わった指同士を戯れさせながら、近い将来訪れるであろう未来に思いを馳せる。ふと憂は昨日のベランダでの会話を思い出していた。お姉ちゃんに進路はどうするのかと訊ねられたときのことだ。
「あ、あのね。お姉ちゃん。昨日話してた進路のことなんだけど」
 指の動きを止めておずおずと切り出す。昨日はごまかしてしまったが、今はどうにかして伝えなければという思いに駆られていた。
「私、お姉ちゃんと同じ大学に行きたい」
 ああ、ついに言ってしまったと心中で頭を抱える。いくらこういう関係になったと言っても、それとこれとは話が別だろうということも解っていた。早鐘を打つ心臓を押さえながらお姉ちゃんの反応を待つ。不審がられたらどうしよう。今さらになって激しい後悔に苛まれる。
 お姉ちゃんに両肩を思いきり掴まれた。来た……っ! 覚悟を胸に恐る恐る顔を上げると、そこにあったのはしかし、目を輝かせたお姉ちゃんの心底嬉しそうな顔だった。
「本当に!? じゃあ来年からはまた一緒だね! せっかくだし、来年からはわたしの部屋で一緒に暮らそうよ!」
「え、あ……うん」
 肩をぶんぶん揺さぶられながら予想外の反応に戸惑う。ここまで好意的に受け入れられるとは正直予想もしていなかった。拍子抜けというわけではないが、本当にこれでよかったのだろうかという疑問がないわけでもなかった。いやこちらは助かったけど。お姉ちゃんが喜んでくれるなら、それはそれでこちらも喜ばしいことだけど。
 まあ……いっか。
 お姉ちゃんの笑顔を目の当たりにしていたら、不思議とその辺のことはどうでもよくなった。安堵の息をこぼしつつ、憂もはにかんだ笑顔を浮かべる。

 一年。
 それは恐らく、とても長い一年間になるだろう。
 どれだけの喪失感を覚えるかはまだ解らない。どれくらいの間耐えられるかも解らない。でも昨日みたいに泣き出すことはもうないと思う。自分の隣にはお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんの隣には自分がいるのだから。どちらか一人だけが遠くに行ってしまうようなことはないと、信じることができるから。
 朝陽の差し込むリビングで、お姉ちゃんと約束の指切りをした。
「待ってるよ、憂」
 お姉ちゃんの言葉にうんと力強く頷いて指切りの歌を唄う。新たな目標を胸に抱きつつ、満面の笑みで結んだ小指を離した。


(了)

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